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稀代の天才投資家、ニール・シェン(瀋南鵬)の軌跡

皆さんこんにちは。夏目です。

今回の記事は世界最強のベンチャー投資家、ニール・シェン(瀋南鵬)についてです。セコイア・キャピタル・チャイナ(Sequoia Capital China、紅衫資本中国基金)のファウンダー、マネージングパートナーであり、セコイア・キャピタルのグローバルスチュワードとして中国でのベンチャー投資をリードし、中国VC界のゴッドファーザーとも呼ばれるニール・シェンですが、彼に関する日本語記事は少なく、日本ではあまり知られていません。そこで今回、ニール・シェンの伝記である「做最擅长的事:沈南鹏传」や「投资奇人:沈南鹏」を読む機会があったので、彼の軌跡についてこの機にまとめたいと思います。

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セコイア・キャピタル・チャイナ(以下セコイア・チャイナ)のファウンダー、マネージングパートナー;セコイア・キャピタルのグローバルスチュアード;Ctrip(携程、2003年米ナスダック上場、現Trip.com)、HomeInn(如家、2006年米ナスダック上場、2016年上場廃止)の共同創始者;米フォーブスが作成するベンチャー投資家のランキング「Midas List」で3年連続一位を獲得するなど、輝かしい成績を残している稀代の起業家/投資家、ニール・シェン。

これまで投資したポートフォリオにはAlibabaや、Ant Financial、Bytedance、DiDi、JD.com、Kuaishou、Meituan、Pinduoduoなど、中国を代表する企業が並ぶ。セコイア・チャイナを設立する前にも、ニールは個人投資家として米ナスダックにも上場を果たした中国最大のエレベーター広告企業であるFocus Mediaや不動産企業であるE-Houseに投資をし、それぞれの取締役も歴任。CtripやHomeInnを加えると、実に米ナスダック上場企業4社で取締役を務めている。

共同創業者として、三年で2回の米ナスダック上場を果たし、セコイア・チャイナ立ち上げ後も、無数の中国企業を上場へと導いているNeil Shenは名実ともに伝説の起業家/投資家とも言える。中国国内では”点石成金”(石をも触れれば黄金に変わる)の天才とも称されるニールだが、彼の原点をたどると、幼少期からもその天才ぶりを発揮していることがわかる。


数学者を目指した若き天才

1967年、浙江省嘉興市にある小さな町、海寧で生まれたニール・シェン。幼い頃から好奇心旺盛だったニール少年は、数学以外にもたくさんのことに興味をもち、家でもよく母親を質問攻めにして困らせていた。幼少期の愛読書は中国でも有名な知育教材である「十万個為什麼」(十万個のなぜ)であり、彼はその本と共に幼少期を過ごしたという。ニールが7歳になると、周りの子供たちは湖で水遊びをしているところ、彼は家で数学にのめり込んでいた。それを見た国有企業で管理職を務めていたニールの母親は、より良い教育環境のために、叔母が生活する上海へと彼を居候させた。

全国でトップの教育を誇る上海で、ニール少年はその天才ぶりを発揮。小学校三年次には、クラスで成績トップを飾り、その後に進学した上海市第二中学では、全国数学コンテストで一位を獲得し、米国数学コンテストの海外区でも優勝している。これらの成績をもとに、ニールは名門・上海交通大学に試験免除制度の一期生として応用数学部に進学。全国でもトップの学生が集まる上海交通大学でも、彼は突出した成績を残し、学業以外にも応用数学部の生徒会会長に最年少で当選するなど多方面で活躍した。その後、ニールは21歳で上海交通大学を卒業し、数学者への夢を追うため、米コロンビア大学へと進学した。

数学者への夢と決別し、金融の世界へ

米コロンビア大学に進学したニールは、最初こそ米国での生活に戸惑いを見せたが、海寧から上海へと移住した経験をもとに、すぐに異国での生活に溶け込んでいた。生活面では特に支障はなかったものの、ニールは学業でつまずきを見せていた。これまで中国では数学の天才と呼ばれ、国内でも突出した成績を残していた。ところが、コロンビア大学では全世界から集まる天才たちを前に、自身が一番得意とした数学で平均レベルの成績しか残すことができず、悔しがると同時に、数学者としての目標を改めて考え直すようになった。

当時のことを振り返ると、ニールは”数学が得意なことと数学者になれることはイコールではない。当時は数学者になれると信じ込んでいた”と話した。悩みに悩んでいたニールは、自身が生活していたニューヨークの濃いウォール・ストリートの雰囲気に魅了されていたことに気づき、周りの後押しもあり、すでに培っていた数学の知識を捨てることなく、しっかり活用できるMBAの受験を決意。その後、彼は順調に米国のトップビジネススクールであるイェール大学経営大学院に合格し、1992年に卒業後、就職氷河期に遭遇したが、運よくシティバンクに就職を果たした。

米国のトップバンカーから中国へと帰国し、起業の道へ

1984年、中国は計画経済から社会主義市場経済(自由経済)への転換、すなわち経済体制改革に関する決定を行い、改革開放政策(1978年)の恩恵もあって、中国経済は飛躍的な成長を遂げていた。もちろん、この情報は遠く離れたウォール・ストリートにも伝わり、トップバンカーたちの注目を集めていた。

90年代半ばには、中国企業が相次いで海外での上場を試み、ウォール・ストリートもそれに対応するべく、中国人材の獲得に奔走していた。中国企業が海外上場を目指した理由として、当時中国国内では資金不足に加え、国内の証券市場が設立されてからまだ日が浅かった(上海証券取引所は1990年11月26日、深圳証券取引所は同年12月1日)という理由もある。実際、2005年以降、中国企業が海外市場で調達した資金は国内市場分を上回る。

1994年、すでにバンカーとして2年働いていたニールは、次のチャンスを窺っていた。トップバンカーになるためには、自身の努力以外にも、自身の価値観と特徴を充分に活かすことができる投資銀行にジョインすることが必須だと考えていた。そこで当時、世界各国で市場を積極的に開拓し、中国への進出も試みていたリーマン・ブラザーズが候補に上がった。リーマンとしても、未知なる東洋国家である中国について詳しく、ウォール・ストリートの経験を有し、さらには米国の名門大学であるイェール大学の卒業生となるニールはこれ以上のない適材となり、すぐに彼をリーマンへと招き入れた。

リーマンでは、水を得た魚のように、次々と業績を立てていたニールだが、わずか2年間でここを去り、ハノーヴァー・バンク(当時はケミカル・バンクに買収され、現JPモルガン・チェース)へと移籍。しかし、ここでもニールを留めることができず、彼は1996年にドイチェ・バンクのグローバルマーケット部中国マーケットディレクターに就任。卒業してから5年弱でシティバンク、リーマン・ブラザーズ、ハノーヴァー・バンク、ドイチェ・バンクを渡り歩き、わずか29歳でトップバンカーとして名を馳せた。

その後も、ニールは着実とドイチェで成績を残し、最年少でアジア担当役員へと昇格。米国でトップバンカーとしての道を歩んでもおかしくはないほど、輝かしい成績を残したニールは、1999年に旧正月(春節)に、友人のジェームズ・リャン(梁建章)、ジー・チー(季琦)とランチを共にし、そこで起業に対する熱意が込み上がり、ドイチェを辞職することを決意。ニールは米スタンフォード大学の講演で当時のことを振り返ると:「当時、起業することは一般的ではなかった。特に私のような人間には起業することを考えるなどとんでもないことだ、と思っていた。しかし、それもインターネットの普及によって大きく変化し、米国で人々の生活にインターネットが変化を及ぼしている姿を肌で感じ、米国でこのような変化が起きるのであれば、中国だって変わるはずだ、と信じた」。また彼は、起業することに対して:「みなさんが本当に何かをしたい、心の声が呼んでいると思ったら、その声を信じ、すぐさまそれに取り掛かる方がいい。実際、僕もドイチェのボスに中国財務省がユーロ公債を設立するプロジェクトと関わる機会があるため、あと4ヶ月ほどドイチェにいることを打診された。しかし、僕は1999年の年末にドイチェを辞職し、その決断を後悔したことは一度もない。実際ユーロ公債が始まったのは2003年からだし」と語った。  

「携程四君子」と共に、世界最大級のOTA「携程」(Trip.com)を立ち上げる

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「携程四君子」:左からジェームズ・リャン、ジー・チー、ニール・シェン、ファン・ミン

1999年、ドイチェ・バンクを離れたニールはジェームズ、ジー・チーと三人で「携程」(Trip.com)を立ち上げた。ニールとジェームズは、高校時代に全国CSコンテストで入賞した際に、同じ上海の学生としてコンテストに参加したことから知り合い、その後ジェームズもニールと同じく渡米し、ジョージア工科大学でCSの修士号を取得後、オラクルで中国担当のディレクターを務めていた。ジー・チーは、ニールと同じく上海交通大学の出身であり、オラクルにいたジェームズとは業務上の関わりがあった。

90年代後半には、中国国内の旅行業も飛躍的に成長し、1998年には業界全体の売上高が2,391億人民元に達した。ところが、国内の旅行代理店の粗利率や、ツアーを利用する顧客数が右肩下がりになっており、95%のユーザーが個人だったことに気づいた三人は、それぞれ旅行業界の経験やノウハウが全くなかったものの、市場の成長と可能性を信じ、Trip.comを創業。当時、ジェームズとジー・チーがそれぞれ20万人民元出資し、30%の株式を保持していた。投資銀行に勤めていたニールは、比較的資金にも余裕があり、他の二人よりも多く出資し、60万人民元で40%の株式を取得したという。

その後、ニール、ジー・チーと同じく上海交通大学出身であり、共同創始者の中で唯一旅行業界で十数年間の経験を有するファン・ミン(范敏)もジョインし、「携程四君子」という中国のインターネット史に名を刻むチームが出来上がった。筆頭株主であったニールは、自身はCEOではなく、ファイナンス畑出身で、一番得意としてたことが事業戦略作りや資金調達だったため、自らCEOの席をジェームズに譲り、CFOに就任(彼の伝記のタイトルでもある「做最擅长的事」(一番得意なことをする)は正にこの時の経験をタイトルに落とし込んでいる)。ジー・チーはプレジデントとして、社内のミクロマネジメントと営業全般を担当し、ファン・ミンはEVPとして、自身のナレッジを活かし、全体のサポート役に回った。

「携程四君子」で立ち上げたTrip.comの船出は、投資銀行出身のCFO、ニール・シェンによって緻密にその航路を策定し、難なくスタートラインの荒波を乗り越えた。立ち上げ当初、それぞれ共同創業者によって出資された資本金は200万人民元あったものの、キャッシュバーンが激しいインターネットビジネスをよく理解していたニールは、創業直後から資金調達に動いていた。これまでウォール・ストリートで名を馳せていたニールにかかれば資金調達も容易に進む、と周りは考えていたが、その考えとは裏腹に、資金調達は難航。VCとの面談は幾度も失敗に終わったが、その中で唯一手を差し伸べてくれたのが、IDG Capitalだった。今では中国VC界の双璧とも呼ばれるセコイア・チャイナのニール・シェンとIDGのヒューゴ・ション(熊曉鴿)は、奇しくもこの時期にIDGからTrip.comへ出資という形で繋がっている。

ニールの活躍もあり、Trip.comはわずかサービスリリースから3ヶ月でバリュエーション200万米ドルで、50万米ドルを調達。その後、2000年3月にはさらにソフトバンク、米オーキッド・アジア、5Y CapitalとIDGから450万米ドルを調達。同年11月には米カーライル・グループから1,100万米ドル調達。一年弱で1,600万米ドルを調達したニールは、この時を振り返り、「綺麗な事業計画書は意味がない。大事なのはいかに計画書を資金に変えるかだ」と話す。

燃料を車両いっぱいに詰んだTrip.comは、ここから飛躍的な成長を遂げる。ニールはまず、海外の旅行業界を参考にした後、Trip.comに“トラディショナル”なツアー会社のマネタイズモデルを自社に設置。それはすなわち、営業センターとコールセンターを設置することであった。ただ従来のモデルとは異なるのが、ここで“鼠標+水泥”と呼ばれる伝統産業とインターネットの要素を結合するモデルーーー今でいうDXをニールは積極的に取り入れ、ツアー会社がこれまで受け持っていたホテルの予約方法にインターネットの利便性を加えた。そこでPMFを達成したことを確認すると、ニールは当時中国で最大のホテル予約に対応したコールセンターを買収。この買収案はTrip.comに大きな利益をもたらし、一年で2,000社以上のホテルと提携を結んだ。2001年にはTrip.comのホテル予約業務だけで5億人民元の売り上げを計上し、黒字化を実現。2002年にはこの数字も倍に成長し、その時点でTrip.comは中国国内最大のホテル仲介サイトとなった。

ニールはここで満足することはなく、次の買収案を試みた。2002年4月、Trip.comはホテル予約業以外にも、航空券を取り扱うことを決め、中国国内でもかなり大きなシェアを持つチケット仲介会社を買収。そこにニールが得意とする“鼠標+水泥”方式で、インターネットの要素を加えると、わずか一年でTrip.comが受け持つチケットの予約販売業務6倍にも伸びた。Trip.comはその後も順調に成長をし、中国OTA業のトップの座に上り詰めた。ここまで来ると、ニールの頭にあるのはただ一つ、それが米ナスダックで上場することだった。

危機を乗り越え、3ヶ月の上場準備の末、米ナスダック上場へ

2001年、すでに黒字化していたTrip.comはこの頃から上場の準備に入っていた。2002年の成長から、その翌年である2003年に上場を試みていたが、2003年にSARSが中国南部を中心に猛威を振るい、Trip.comも赤字に転落。しかし、当初予想していた期間よりも、SARSは早く収束し、第三四半期にはこれまで抑制されていた消費が積み上がり、これまでの最高売上額を更新。さらには、この時期に赤字転落し、乗り越えることができなかった企業が次々と旅行業を撤退したため、その中で耐え凌いだTrip.comの独壇場となった。

その年の11月27日に、ニールは上場のためのロードショーを始めた。まずは香港から始め、その後シンガポールやロンドンを回り、最後には米国へと渡った。ニールはロードショーにおいてよく投資家からTrip.comの競争力、そして成長の秘訣について聞かれ、彼は得意とする数字で答えるのではなく、サービス精神と顧客の満足度と答えたという。実際、ニールはTrip.comにおいて、どんなに忙しく煩雑な業務があっても、必ず顧客の満足度を最優先していたという。またTrip.comのビジネスモデルは真似するのは容易と自分自身も話すが、それでもサービスの質が高く、顧客の満足度も高かったことから、他の追随を許すことはなかったと話す。

SARSにより、わずか3ヶ月で準備したロードショーだが、これまで投資銀行で長年働いていたニールの活躍もあり、米国での上場準備も順調に進んだ。そして2003年12月9日10時45分、Trip.com(NASDAQ: CTRP)は米ナスダック市場で上場し、公募価格18米ドルのところ、初値で24.01米ドルになり、終値で33.94米ドルとなった。これは当時の米国証券市場、3年内で最もパフォーマンスが良い新規上場案件となった。Trip.comの快進撃はその後も続き、新規上場したその週には公募価格の118%も上昇した。この未知なる東洋の国からきたベンチャーの快進撃は、米国での注目を集めると同時に、中国インターネット企業における米国上場の道を切り開いた。

Trip.com上場後、凱旋帰国したニールは早速、Trip.comの業務見直しと改善に乗り出した。止まることは死を意味することを誰よりも理解していたニールは、サービスの質の向上のために、シックス・シグマを導入。まずはコールセンターの応答速度から、回答内容の正確性などをモニタリングし改善。その次に旅行中、自然災害によって被害を被ったユーザーに対する損害保険の設立や、離陸直前一時間前まで航空券の予約を可能とするシステムをリリースするなど、ユーザーの需要にとことん応えていった。これらの改善策によって、Trip.comは中国国内で不動の地位を築き、業績も順調に伸ばし続けていった。そして、Trip.com上場の立役者、ニールはこれらの改善策の施策を終えると、「次の上場」へと動き始めていた。

米ナスダック市場の常客、ニール・シェン

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HomeInnの上場時:左からスゥン・ジェンとニール・シェン

2001年、「携程四君子」の一人であるジー・チーはTrip.comに投稿されていたコメントを逐一確認していた。その中で一つのコメントが彼の注目を集めた。それはユーザーがTrip.comで予約するホテルの価格が平均的に高いことに対する不満だった。OTAを主事業としているTrip.comとして、ホテルの価格はあくまで提携先からいただく価格に基づいて算定しているため、直接の関係はなかったが、ジー・チーとニールはそこに新たなビジネスチャンスを見出した。

「携程四君子」の中で、ファン・ミン以外の3名とも米国での生活経験があったため、モーテルや、日本で言うビジネスホテルなどといった比較的宿泊代が低いホテルが主流だったことを知っていた。米国では星がつくラグジュアリーホテルとビジネスホテルの比率は1:7だったが、中国では逆の7:1であり、基本的には2社の寡占状態だった。ニールはTrip.comのホテル予約状況のデータを分析し、掲載されているホテルの平均予約率は70%に対し、ビジネスホテルの予約率は90%だったことを知り、更に調査を進めた。結果的には、中国では米国同様、ラグジュアリーホテルの機能をとことん削ぎ落とし、住み心地と衛生面だけを確保した上で、平均価格が200人民元(3,000円前後)に大きなニーズがあった。

ニーズがあることを確認した「携程四君子」はすぐさま行動に移した。ジー・チーは北京に移住し、ビジネスホテルの開発に注力。ニールは資金調達と事業提携してくれるパートナー探しに奔走した。2002年6月には、国営の旅行会社である首都旅遊集団とTrip.comが手を組み、後者が55%、前者が45%の株式を保持し、資本金1,000万元、中国でビジネスホテルを展開するHomeInn(如家集団)を立ち上げた。ニールは代表取締役の座につき、HomeInnは首都旅遊集団からホテル四箇所の使用権を15年分取得し、試験的にビジネスホテルの開拓を進めた。

従来の開拓方法ではなく、ニールは直営のホテルと、フランチャイズ経営、ホテルアライアンスの立ち上げ、ホテルの経営委託契約など4つの方法で、HomeInnを急速に全国区へと拡大。2002年の立ち上げ当初には5つのホテル、487の客室を経営し、売上額は2,000万人民元、利用者数は13万人ほどだったが、2004年には全国に35箇所のホテル、4072の客室を経営し、売上額は1.15億人民元、利用者数は83万人にも上った。そしてここでも、資金面でのサポートに入ったのは、Trip.comにシード段階で出資をしたIDG Capitalだった。IDG Capitalのヒューゴ・ションは起業家に投資することで有名であり、Trip.comをわずか数年でIPO段階まで成長させた創業チームの手腕を高く評価し、HomeInnのシードからシリーズAまでの段階を伴走した。

2006年にはHomeInn傘下に82箇所のホテルと57の建設中のホテルがあり、年間の売上額は2.49億人民元に達した。ここで、HomeInn創業の立役者の一人であるジー・チーはHomeInnのCEOを降り、これまでホテル業に関わったことのないスゥン・ジェン(孫堅)に席を譲った。この時を振り返り、ジー・チーは“その時のHomeInnはまさに山道を乗り越え、高速道路に入ったオフロード車だ。自身のスピードに酔いしれているが、事故が一番起きやすいのもまさにこの時だろう”。HomeInnは急速な拡大期を乗り越え、これからは標準化されたホテル経営を必要としていた。そこで必要とされる手腕は、事業の作り手ではなく、持続可能な経営モデルを自社に取り込むいわゆる経営人材だった。

ジー・チーがHomeInnを離れることに対しては、経営層も皆理解を示した。この時ニールは、ホテル業界で次のCEO候補を探すのではなく、逆にホテル業に対して一切理解がなく、フランチャイズ方式を誰よりも理解していた小売業の経営者候補を探した。それがまさにスゥン・ジェンだった。

中国では“新官上任三把火”(新任の役人は3本のたいまつを燃やすほどのエネルギーがある)ということわざがあるように、新たな経営体制となったHomeInnは、スゥン・ジェン主導のもと、拡大路線を一度落ち着かせ、全国に布陣していたホテル経営の見直しに入った。直営のホテルを強化し、これらのホテルを起点にフランチャイズで広がったホテルのクォリティーコントロールを実施。HomeInnは全国のビジネスホテル界で不動の地位を築き、その後2006年10月26日に、HomeInn(NASDAQ: HMIN)は米ナスダック市場に上場。上場セレモニーに参加したニールは、メディアからも3年足らずで二社ナスダック上場を果たしたことから、「ナスダックの常客」とも呼ばれることになった(この後にTrip.com、HomeInnの共同創業者であるジー・チーは同じくビジネスホテルを運営するHuazhu Groupを立ち上げ、米ナスダック市場に上場を果たし、創業者として3度ナスダックへの上場を経験している)。

天才起業家から、稀代の投資家へ

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ニール・シェン、ジャン・ファンと彼らの“師匠”であるマイケル・モリッツと

3年で2度も米ナスダック上場へと導いたニール・シェンは、Trip.com上場時と同じく、すでに次の行動に移していた。実際、Trip.comが上場する前の年である2002年からニールは個人投資家として、スタートアップへの投資を実施。ニール自身は投資について“投資銀行で8年間培ってきた経験から、自分は投資に向いていると思う。金融が好きだし、具体的なオペレーションを回すのはむしろ苦手だ。投資を実施することは、自分の興味と向いている仕事に回帰しただけだと思う”と話した。事実、2002年から個人投資家として投資した案件の多くは花が咲き、その中でもE-HouseやFocus Mediaは唯一の個人投資家として出資し、ニールに多くのリターンをもたらした。

起業家は間違いなく、個人投資家としてもその類稀なるセンスを証明したニールは、起業家のネクストキャリアとして投資家に回帰することを考えていた。個人で投資を続けることも考えたが、投資機関と比較し、個人価値の最大化を実現するためには、ニール・シェンという天才起業家のブランドを持ってしても実現することは困難だと考えたニールは、既存のベンチャーキャピタルに参画し、投資活動に従事することを決めた。そこで彼の視野に上がったのがセコイア・キャピタルだった。

1993年、IDG Capitalが中国初のドル建てファンドとして、中国に参入してから早10年。世界で名を馳せているベンチャーキャピタルも次々と中国市場に参入し、投資活動に従事していた。もちろん、世界トップティアのベンチャーキャピタルであるセコイア率いるドン・バレンタインやマイケル・モリッツも参入時期を窺っていた。

セコイアが中国におけるパートナー探しにおいて、大事にしていたのが実務としての投資経験以外にも、中国という市場への理解、さらには中国と米国両国におけるスタートアップ環境の知識。多くの投資家や起業家とコンタクトを取ったが、適任者をなかなか探し出すことができず一年過ぎたが、その中で白羽の矢が立ったのがニール・シェンだった。起業家として一社のIPO(当時HomeInnは上場前)を経験し、さらには米国のトップスクール出身で、投資銀行での業務経験も豊富。個人投資家としてもその能力とセンスは検証済みであり、うってつけの人材であった。ニールとしても、セコイアは創立から30年以上立ち、自社にベンチャーキャピタルとして必須のリスクコントロールに関するノウハウが蓄積されているほか、セコイアは中国でのブランチを創設する前から決裁権を本部がある米国ではなく、中国の経営層に全てを委ねると決断していた。両者が双方に対する期待も全て一致し、ニールもセコイア・チャイナにファウンダー兼マネージングパートナーとしてジョインすることを決めた。実はこの時、セコイア・チャイナの立ち上げにはもう一人のファウンダーがいた。

セコイア・チャイナというと、ニール・シェンの印象が強いが、創業期にはニール以外にも、もう一人のファウンダーがいた。元DFJ Venture(現Threshold Ventures)のVPであるジャン・ファン(張帆)だ。ジャンは元々清華大学に在学していたが、大学三年次に家族と米国に移住。大学の学歴を捨て当初は医療メーカーの技術者として働いていた。ところが、この医療メーカーは不運にも倒産し、ジャンは行き先に困っていた。そこで、彼は再度学業の重要性を痛感し、努力を積み重ね、米スタンフォード大学へと進学。学部と修士共にスタンフォードで修めたジャンはその後投資業界に就職。DFJ Ventureで多くの投資案件を担当し、その後中国地域の責任者に上り詰めた。数多くの投資案件のうち、ジャンを代表するポートフォリオはBaiduやFocus Mediaなどがあるが、まさにFocus Mediaへの投資を実施した際に、後にセコイア・チャイナを共同で立ち上げるニールとの出会いを果たした。

中国メディアから“黄金コンビ”と呼ばれたニールとジャンはセコイア・チャイナのビジョンでもある「起業家の背後にいる起業家」という理念を保ち、多くのスター案件に出資。Alibabaや、Ant Financial、Bytedance、DiDi、JD.com、Kuaishou、Meituan、Pinduoduoなど、中国を代表する企業に出資し、「中国インターネット業界の半分にも出資した」と評価されている。ジャンは2008年の年末に一身上の都合により、セコイア・チャイナを離れた。

ニール・シェンの投資手法

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毎年、浙江省嘉興市桐郷烏鎮で開催される世界インターネットカンファレンス(World Internet Conference、WIC)後にJD.comの劉強東とMeituanの王興が主催する「東興飯局」食事会の参加者。左から3番目がニール・シェン。

セコイア・チャイナを立ち上げたニール・シェンは、セコイア・キャピタルの理念を受け継ぐも、その投資手法に関しては徹底的にローカライズすることを意識した。セコイア・キャピタルはかつて、シリコンバレーから半径40マイル(約64キロメートル)以上離れた企業には投資しないと公言していた。これにはインターネットを活用したハイテク産業以外には投資しないとの意味も込められているが、ニール・シェン率いるセコイア・チャイナは初期から積極的に非ハイテク産業への投資を実施。

2006年5月18日に、セコイア・チャイナは750万米ドルで、宏夢卡通と手を組み、宏夢数碼を立ち上げアニメ産業に参入。これは中国国内で初めてアニメ制作会社がVCから資金調達する案件となる。ニールは自身の娘がよくアニメを視聴していたが、全て海外で制作されていたことに気づき、今後国産のアニメが台頭することを信じ、投資を実施。2010年までにこの宏夢卡通は数多くのアニメを制作し、国内で多くの賞を獲得している。

同年5月に、セコイア・チャイナは農業を営む福建利農集団に500万米ドル出資し、これはセコイアの歴史上初めて農業系の企業に出資した案件になる。当時の中国では、農業技術はかなり遅れを取っており、品質のいい農産物を生産することに対するニーズはとても大きかった。そこで福建利農は2004年から品質の高く、安心、安全な有機野菜を生産することを試み、その中で工業化生産の手法を取り込んだ。福建利農はニールの期待を裏切ることはなく、4年後の2010年に米ナスダック市場で上場を果たした。

これらの投資案件から、ニールはハイテク産業以外にも、中国の国情を理解した上で非ハイテク産業にも積極的に投資していることがわかる。またこれまでの投資から、セコイアは起業家よりも事業領域に出資する傾向にあるが、ニールは中国においては全てが人を中心に回ると話す。セコイア・チャイナは、これまでECや旅行系サービス、フィンテックなどの領域に目をつけ、目ぼしいスタートアップには全て投資してきたほど、領域ドリブンなVCだが、ニールは最終的にやはり人がベースになると語った。経済小説作家であるウー・シャオボォ(吳曉波)がニールをインタビューした際、起業家ドリブンか事業ドリブンかという質問に対して、ニールは“(スタートアップの)初期の段階ではアートがテクノロジーに勝る。ではアートとは何なのか。アートは人だ。人という要素が投資判断の70%にも上る。もちろん、レイターにもなればデータがあるため、基本的な推測と判断を下すことができるが、アーリーラウンドでは全てが人を中心に回る。起業家自身や創業チーム、そして彼らの背景などだ”と話した。

中国におけるセコイア・チャイナの影響力、そしてそのスピードは凄まじく、あの天才起業家、テンセントのポニー・マー(馬化騰)も“テンセントはここ数年、数十社の優れたスタートアップに投資をしてきたが、ほぼ全ての案件において彼ら(セコイア・チャイナ)が僕たちの先を越す”と話す。360の創始者、ジョウ・ホンイ(周鴻禕)もニールを“彼は常に飢えているサメのようで、いいスタートアップがあったらまるで血の匂いを追うように、すぐさまチャンスを奪いに行く”と評価している。

3年連続で「Midas List」の一位を獲得した稀代の天才投資家、ニール・シェン。彼なしには中国のインターネット業界の飛躍的な成長を語ることができなかっただろう。それでもニールはウー・シャオボォのインタビューに対して、「Midas List」の一位になれたのは一言で話すと中国の市場が拡大し、いわゆる「水大魚大」(水槽が大きくなれば魚も大きくなる)と話す。彼が一位にならなくても、他の中国人キャピタリストが首位を飾ってたろうと語る。しかし、それでもあのMeituan創始者、ワン・シン(王興)が話すように“人は起業する限り、この大きな業界にいる限り、どこへ行っても必ずセコイア(セコイア・チャイナ)に出会うだろう。なぜならばセコイアは常にそこにいて、誰よりも真っ先に先頭を突き進んでいるから”と。ニール率いるセコイア・チャイナは紛れもなく、中国のスタートアップシーンをリードし、中国の産業界に多大なるインパクトを起こしてきた。そして今後も中国のみならず、アジアのスタートアップシーンをも牽引していくことになるだろう。

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中国のトップVC、セコイア・キャピタル・チャイナ、そしてそのファウンダー兼マネージングパートナーであるニール・シェン氏について、これまでまとめてある日本語記事は少なく、まとめてみたら13,000字も超えてました。。。

自分もこの記事をまとめている中で、彼の起業家人生から投資家への転換、そして投資手法などについてとても多くのことを学びました。これからも不定期に中国のVCや起業家、またはスタートアップについての記事をまとめていきたいと思いますので、もし宜しければスキとTwitterの方フォローしていただけますと幸いです!(次は中国初のドル建てファンドを立ち上げたIDG Capital ヒューゴ・ションについてまとめたいと思います)

また最後にニール・シェンの人物関係図も作ったので、参考までに!

付録:ニール・シェンの人物関係図

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