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エッセイ 15 哲学と心理学と人らしさ

「哲学」って何なの?っていうと「ものの考え方」
という説明となるでしょう。
「心理学」って何なの?っていうと「人の考え方」
と言えるかもしれません。

このように説明すると、心理学も哲学の範疇なのかもしれません。このような、よくわからない難しい説明付けをすること自体も、哲学的な考え方なのでしょう。


私は、このような考え方をよくします。数学の方程式などは、なぜそのような形になったのかを知りたくなるタイプです。そのまま覚えて利用したほうが問題を早く正確に解くことが出来ます。方程式の理屈を知ったところで自己満足なだけなのは理解しているつもりなのですが、物事の理由が気になるのです。

円の面積を求める方程式「円の面積 = 半径 × 半径 × 円周率」ですが。
次の図形を見てワクワクする方は、私と同じ方向をみているかもしれませんね(笑)

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感情が大切

世の中に起こっていることや、自分の身の回りに起こっていることの理由を知りたがってしまいます。その時自分の感情はどこにあるのか?と思い返すと、どこにも無いような気がします。「物事の理由を知りたい」という感情はあるのですが、楽しいとか、悲しいとか、特に怒るというような感情は意図的にストップをかけているような気がします。

これまで生きてきて、自分の感情を出したことで得をしたことがあまりないという経験がそうさせているのかもしれません。もともと物事の理由を知りたいという特性があったこともあり、自分の感情を出す理由がほとんどなくなってしまっています。

人らしくない

人は感情の生き物ですよね。たぶん。
という点でいつも思うのですが、私は人らしくないなぁと。
身の回りに起きた出来事も、今の状況を知ろうとし、この先どうなるかを想像し、その結果から行動しています。こう書いてみると、やっていること自体は悪くないような感じに見えてしまいますが、これは人らしくないのです。その行動の中に、自分の感情がほとんどないのです。

基本的には自分が得するためには。という視点で見ています。

「情けは人の為ならず」ということわざがあります。
人に親切に接すると、その人のためになるだけでなく後に自分によい事として戻ってくるという意味です。
このことわざは、私の少ない経験からもとても共感できる部分があり、自分が得するためには周りの人を得させればよいという考え方を常にしています。

身の回りに起きた出来事の、この先どうなるか?という問いを考えるときに、「みんなが幸せになるためにはどうすればよいか」を考えています。私の腹の内を明かせば、「自分が得するためにはどうすればよいか」なのですが。

このような考え方をして周りの方と接していると、自分の感情はどこにあるのだろう?という思いが浮かびます。いや、正確に言うと、自分のことを感情の無い人として見られているのではないだろうか?という思いが浮かびます。周りに人が全くいなく自分ひとりだけだと、周りにどう思われるかすら考えることはないと思います。


哲学、心理学

哲学や心理学を専攻されている方々は、自分の感情とどのように向かい合っているのでしょう。

ひとりの人として生活をして、楽しければ笑い、悲しければ泣き、嫌なことがあれば怒り、感情のまま過ごすことは、社会の一員として過ごすうえでは、どんな人にとっても難しいことだと思います。しかしそれがあってこその人だともいえます。

私は、感情が自然に湧き出た時に、その理由を考えることでその感情をごまかしているのかもしれません。理由を知りたいという言い訳のもとに感情を抑え込んでいるのかもしれません。今では元々の感情すらあまり出てこなくなってしまっています。学問としての哲学や心理学という大きな言い訳が手に入ってしまっています。

人らしくない人が、「みんなが幸せになるためにはどうすればよいか」などという考えが浮かぶはずがないように思います。自分以外の人の感情をコントロールすることなど出来るはずがありません。自分の感情すらコントロールできていないのですから。

今回のお話は、結論や解決法があるものではないのですが、バラバラに散らかっている自分の気持ちを整理できればいいなぁという思いがありました。
決して自分は悩んでいるわけではなく、整理すれば理由が分かるのかなぁという思いからの記事です。これもまた理由が知りたいという欲求のもとで書いています(笑)

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