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予期せぬ実践編

今週ある日の夕方、駅前の大型スーパーに行こうと思って敷地内に入ると、短い白髪のお婆さんが店の搬入口と自転車置き場の間で顔に手を当てて立っているのが見えた。
よく見ると顔に当てている方の手にはハンカチを持っていて、どうやら顔を押さえているようだ。普通じゃない様子だったから近くに寄って「大丈夫ですか」と声をかけると、お婆さんは僕の方を向いてぼんやりした目で「今ここで転んだのよ」と教えてくれた。地面を確認するとアスファルトが劣化で剝がれかけている部分があったので恐らくそこに足を引っかけてしまったのだろう。

お婆さんの顔には左目の上とその下の頬の部分に擦りむいたような生々しい傷があった。手にも血がこびり付いている。ハンカチで何度も傷を擦るが、半ば固まった血は落ちず、痛々しさを増すばかりだった。
「まだ血ついてる?」と訊かれて困るくらいに傷は痛々しかった。とてもじゃないがそのままで大丈夫とは思えなかったので、取り敢えず鞄に常備しているポーチからウエットティッシュを抜き出して渡したが、それだけでは間に合いそうになかった。

何度もしつこく「大丈夫ですか」と尋ねる僕に、お婆さんは「お父さんがパチンコに行ってるから、その間に私はそこのATMでお金をおろそうと思ってここに来たんだけど」と顔を拭きながら説明してくれたが、いまいち会話が嚙み合わない。
血がまだ取れ切っていなかったので一度店内のトイレで確認して水で流した方がいいと思って提案しても上の空で伝わらないままお婆さんを見ていると状態はどんどん悪くなっているように見えた。

すると急にお婆さんが店の出入り口とは逆の方向に歩きだした。しかし足元がふらついて真っすぐ歩けずよたよたしたので僕は咄嗟にお婆さんの両肩を掴んで立ち止まってもらった。多分「あぶないっ」と小さく叫んだんだと思う。近くに自転車を停めた中高年のおじさんと目が合った。
お婆さんの顔を見ると貧血なのかなんなのか詳しい原因はわからないが先刻までより血の気が薄く目の焦点も合っていないように見えた。目が合った自転車のおじさんにお婆さんを支える係をお願いして僕は店の人を呼ぶことにした。ここ数年で一番速く走った。

結局店のサービスカウンターの方に出てきてもらって状況説明などを済ませた後、店側にすべて任せて僕はその場をあとにしたけれど、もう少し様子を見守った方がよかったのか、それとも今回の対応でよかったのか、正直今も悩んでいる。大袈裟にいえば緊急事態にどう対処するかもう少し学ぶ必要性を感じた。


この出来事以降まだそのスーパーには行っていないので、その後のことはわからないが「微力ながら他人の役に立てたかもしれない」そう思うと気分が高揚したのも事実で、それを後ろ向きに捉えては駄目だとも思っている。
誰かに称賛されることや自分をよく見せるためではなく、素直に他人に関わることができた自分を少しは認めてやりたい。まったくの他人を単純に心配できる自分であることが嬉しいと思えたのだ。

僕が特殊なわけではなく、同じ状況に出くわせば多くの人が似たような行動をとるはずだ。お婆さんの傷に気づいてしまったら声をかけずにはいられないだろう。それは人間が善なるものかどうかという話ではなく、無視した自分を直視できない弱さが人間にあるからだと思う。

そして今回改めて気づかされたのが他者のために何かを行うことが人間にとってひとつの快感であるということだ。前回の記事で利他について少し語ったすぐ後に起こった出来事で、ちょっとした実践編に出くわしたような形になった。因果の外からやってきた現象に対応することで「利他」という言葉がより身体に馴染んだような気がしている。

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