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💔ウマ娘を知らないで書く【サイレンススズカ】

〈静かな白木屋〉
 
携帯はあった。でも、ネットニュースはほぼ無いし、SNSも無い時代。1998年11月1日、夕方4時に開店する府中の白木屋に入ったのは17時前だったと思う。金がないから学生はいつも白木屋だ。ビールとつまみを少し頼んだ時、隣のテーブルの知らないオヤジが言った。「サイレンススズカ、ダメみたい…」あんな静かな白木屋は後にも先にも最初で最後だった。客の9割以上は東京競馬場から流れてくる。ほんの3週間前の話をするグループ、金鯱賞の話を始める集団…その時はまだ、彼はファンの中で生きていた。

〈2頭の逃げ馬〉
 
3歳の春、プリンシパルSに勝ち、ダービーに歩を進めた。その舞台にはサニーブライアンがいた。皐月賞を逃げ切り、結果ダービー馬になる逃げ馬である。ゲートが開く、必死に抑える上村(上村を責めるつもりはない)。その瞬間、サイレンススズカのダービーは終わった。結果、逃げても当時の力では勝てなかったと思う。まだ、「かけっこ好きの少年」だったと思うから。「これはもう、フロックでも何でもない!2冠達成!」の約1秒後、静かにゴール板を通過した。


〈天才との出会い〉
 
出会いの場所は香港。3歳の秋のことだ。武豊と気持ちよく、本当に気持ちよく走った。「かけっこはこんなに楽しいんだ」。そう気づいた少年には耐えうる筋力がつき始めていた。その日からの10ヶ月半は日本競馬史に燦然と輝く10ヶ月半となる。2月のオープン特別を皮切りに4連勝し宝塚記念を迎える。武豊はエアグルーヴに騎乗するため、鞍上は南井克巳となった。ちょっと口悪くレースを観ていた。
「何度も後ろ振り返ってんじゃねーよ。心配すんなよ、手綱抑えんなよ、素人かよ、ただ跨ってりゃ良いんだよ、邪魔すんな!」失礼しました。

〈伝説の毎日王冠〉
 
南武線沿線に住んでいたので府中をホームにしていた。7・8・9月、非開催のそこに通うルーティーンに正直、「何やってるんだろ?」って感じになっていた。府中開幕週の日曜日、いつものように府中本町の改札から屋根の下を歩き、200円を払い、場内に入った瞬間の衝撃は死ぬまで忘れない。「本当にこのレースを観たい」ファンの熱気が真正面から襲ってきた。サイレンススズカは逃げ馬ではない。ただ「かけっこが速い」から結果逃げているように「見える」だけ。時計1分44秒9、上がり35秒1、2着エルコンドルパサー。単語の羅列だけで、ご飯が三膳食える。本当に涼しい顔をして気持ちよく「かけっこ」をしていた。


〈挨拶〉
11月1日、1枠1番、1番人気。記憶違いなら謝る、あの日「返し馬はしなかった」。本馬場入場後、外ラチに沿ってゆっくり歩き2000のスタート地点に天才と彼は向かった。本当に、ゆっくりと。

 その1ヶ月後、エルコンがジャパンカップを勝つ。10月11日の毎日王冠、11月1日の天皇賞、そして11月29日。もちろん同じ年なのに、同じ年に感じないというか…一気に時代が変わってしまったというか…それだけサイレンススズカの存在と成しえたことが大きかった。そう思う。

個人の感想なので怒らないでください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回はどの馬にしよーかな。

父  サンデーサイレンス
母  ワキア
〈主な勝ち鞍〉
宝塚記念
毎日王冠

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