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ぼろ電車

※このお話はフィクションですし、もちろん飛越鉄道も架空の鉄道です。

 飛越富山駅には市内電車も乗り入れてくる。
そして定期的にひたすら異彩を放つ電車がやってくる。リベットでごつごつの頑丈そうな車体をゆらゆらと揺らしながら入線するその電車は、他には見られないような貫録を放ちながらゆっくりと停車する。
 このぼろ電車が製造されたのは令和はもちろん平成も昭和もすっ飛ばした大正15年。
製造当時のこの電車はホ103型といい、単車にあふれた瀬戸電気鉄道の新進気鋭のエース電車であった。
しかし昭和11年に飛越鉄道に合併されると10両の姉妹たちはバラバラになってしまう。
時代は日中戦争から太平洋戦争へと進もうかというころである。
富山に置かれた歩兵第35連隊は中国・満州方面へ出撃。
そのため、人員や物資の動きは激しく、富山の飛越鉄道電気事業部は従来より大型の車両が求められたのだった。
しかしながら飛越鉄道の基本的な路線はすべて非電化汽車鉄道であり、かろうじて電化している八尾線は路面電車と大差なく、立山線の電車は小型車であった。それに対し瀬戸電のホームが低床であったことから車両はすべて路面電車然としたステップをつけており、また架線電圧も同じ600Vであり、彼らのうち半数にあたる5両が富山に「出征」することとなった。
足りない分の車両は近隣の名鉄に頼み込み、モ520を数両借り入れた。

 富山に渡った5両は空襲からも逃れ、1両も欠けることなく戦争を耐え抜いた。昭和20年に戦争は終わった。
 しかしながら彼らが再び古巣の鉄路を踏むことはなかった。
その輸送力で連結運転も可能であり、鉄道線入線も可能、高速走行よりも加減速性能が高い性能はまさに電気事業部が求めていた車両であり、富山での活躍を助長した。
こうして彼らは富山にとどまり続けるわけだが、古巣の瀬戸線は沿線の宅地開発、増結に次ぐ増結、昇圧、と目まぐるしく変化していった。

 高度経済成長期を過ぎたころには、彼らはすっかり「旧型車」になっていた。しかしながら飛越鉄道にはいかんせんお金がなかった。置き換え用に製造された連接車は資金不足で量産中止、しまいにはとうとうこの旧型車に冷房まで載せてしまった。もはや「使えるもんはとにかく使っとけ!」と言わんばかりである。
ここまでくると親子孫どころか曾孫まで乗せているのではなかろうか。
なんのかんのいわれつつ時代の流れに合わせた様々な改造を乗り越えて、今日も彼らは走る。

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