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小説『はだかの琢さん』

これまでの『はだかの社長』シリーズ

なお、『はだかの社長』シリーズは「一応」全年齢向けです。

同居を始めて八年になる、元ノンケ(異性愛者)青年橘洋平と、ゲイの中年男神戸琢蔵。
毎年、十月になると「ある理由」で騒ぎ立てる神戸だが、今年は少々事情が異なるようで……。


 貴殿は、「飛流大学」をご存じであろうか。
 日本有数の歓楽街と同じ区にある中堅私立大学で、有名人OBを多数輩出していることにより広く知られている。また、応援団においては六大学と肩を並べるほどの名声を誇るが、団の実態は、うっそうとした木々に囲まれた校舎のごとく謎に包まれていた。
 今回は、この大学に関係する三人の男たちの話をお読みいただきたい。

 飛流大学から一キロメートルも離れていない場所に、小さな私鉄駅が存在する。周辺には居酒屋、整骨院、コンビニ、ドラッグストアなどが軒を連ね、踏切を渡るとすぐに急坂の上りとなっていた。
 十月に入り、日が落ちてしばらく経つものの、坂を上り下りする人々のほとんどが、顔に汗を浮かべている。暦の上では秋深まる頃だが、夏から続く記録的猛暑は夜になっても収まる気配がない。
 両脇に商店が並ぶ坂を上り切ったところで右折すると、密集する狭小住宅の通りがしばらく続く。そこを抜けると、銀色のトラックが三台並ぶ駐車場、そして、軒看板に「タクチャン引越センター」と掲げられたプレハブが現れた。
 夜八時を過ぎ、じっとりと湿ったぬるい空気が漂うなか、開けっぱなしの窓から、屋内の様子がはっきり見えた。
 玄関口の脇にあるのは、申し訳程度の簡素な来客用テーブルとソファー。奥には、ノートパソコンと電話が置かれたスチールデスク。それらが向かい合って六台並んでおり、八畳ほどの室内の大半を占める。エアコンは稼働しておらず、蒸し風呂並みの危険な暑さを招いていた。
 冷蔵庫の上に貼られた「節電厳守」の紙。その隣には、予定表と作業シフトが記されたホワイトボードがあり、黒Tシャツを着た様々な年代の男たち七人が集まっている。二十代から五十代までと見受けられる彼らの胸と背中には、白い「TAKUCHAN」の文字と、電話番号がプリントされていた。
「明日の現場は九時・十三時・十五時の三件。バイトさんは八時半ここに来るか、八時五十分までに現地集合でよろしくお願いするっす」
 汗で湿った短髪をゆるく七三分けにした、青年を少し過ぎた風貌の男が、黒シャツたちに赤い顔で声を張り上げた。彼の名はたちばな洋平ようへい。飛流大学を卒業し、この会社に就職して十年が経つ中堅社員である。男たちは橘も含めみな、常人の域を超えた筋肉を身にまとっていた。
「あとバイトさんは、もし急に都合が悪くなったら●●●●●●●●●●●メールかラインでいいんで、必ず事前に俺か、社員の人に連絡してくださいね」
「なんで俺を飛ばすんだ」
 事務所の奥から、酒でしわがれた●●●●●おぼしきだみ声が轟く。
 一同の視線が、いちばん奥の席にいる、八人目の黒Tシャツ男に集中した。不機嫌そうに腕組みをしている男の前で、部屋に一つだけある扇風機が首振りに勤しんでいた。
 五十代ほどの外見で坊主頭。唇をぐるりと覆うひげ面で鋭い眼光。シャツの生地を押し上げ、先端がくっきりと浮き出ている大胸筋。腹に掛けて大きくせり出した脂肪。
 その筋●●●の関係者ではない。「タクチャン引越センター」社長、かつ、飛流大学応援団部第十七代団長の神戸かんべ琢蔵たくぞうである。
「えー、差し支えなければ、もちろん社長に直に言っても構いません――が」
 橘は薄笑いを浮かべて、灼けた筋肉質の腕が半袖から伸びている青年二人を見回す。短く刈り込んだ髪型の彼らは、がっしりとした体格に似合わぬ引きつった面持ちを、困ったように見合わせた。
 その時、戸口の引き戸がガラリと開き、無精ひげに覆われた四角い顔が現れた。
「毎度様ーっす、安岡酒店でーっす」
 頑丈そうな巨躯に、薄汚れた白Tシャツとジーンズをまとった、藍色の前掛け姿の男。名は安岡やすおか大吾だいご。四十歳を過ぎた見目形の彼もまた、飛流大学応援団部第二十八代団長である。
 微妙な空気を察したのか、室内に足を踏み入れた安岡はバイト青年たちの肩に太い両腕を回し、ポンポンと胸板を叩いてやる。
「おう、どうなされた、若ぇお人にシケた顔は似合わんでありますぞ」
 神戸と同様「指名手配系」の面構えでありながらも、ことさら人懐こい笑顔を向けられ、青年二人も照れたように笑みを返した。
「じゃあ、バイトさんはお疲れ様っした」
「お疲れ様っした」
 橘に一礼し、ロッカーへと向かった青年たちの背中を、安岡が大きな両手でもう一度ポンと叩く。バイトたちは振り向き、うっす、と安岡にも頭を下げた。
「おう安岡、今度から貴様、その格好で荷物運びに来たのか」
 冗談なのか本気なのか判別不能な兇相きょうそうで声を掛けた神戸に、「いやいや、今日は本業でありまして」と安岡は、物慣れた笑顔で近寄った。
「貴様もどうにか酒屋に戻ったか」
「うっす、おかげさまで」
 三年前、未知の感染症が世界中に蔓延まんえんし始めた当時、飲食店は営業短縮・休業を余儀なくされ、酒の提供時刻にも制約が設けられた。結果、安岡の店も売り上げを大きく減らすこととなる。それでもすぐさま応援団のつてを頼り、引越の助っ人など様々なアルバイトをして、急場をしのいできた。
 その節は大変お世話に、と深々と頭を下げる安岡に、体毛に覆われた太い腕を組んだ神戸は、低く鼻を鳴らす。この所作が、彼なりの「笑顔」であることに気付く者は、安岡と橘、そして、古くからの従業員ぐらいのものであろう。
「ところで」
 生け捕りにした美貌の姫君を目の前に、さてどうしてやろうか、と考えあぐねる悪代官のごとく、神戸は目尻を下げる。
「今日から本当にアレが安くなったんだろうな」
「ええ、それはもう」
 にやりと笑みを浮かべて軽くうなずき返す安岡。もし、部屋に隠しカメラが仕込まれていて当のやり取りをネットで流されたら、炎上の末、警察まで動き出すことは九分九厘間違いない。
「じゃ、ひとまず入るだけその冷蔵庫に入れといてく……」
「社長」
 不服そうな表情で橘が、口をはさむ。神戸は緩んだ顔を懸命に引き締めると、橘に向き直った。
「じょ、冗談に決まってるだろうが。なっ、洋平。――だが、一本や二本ぐれぇは……」
「絶対駄目です」
 拝む真似をした神戸に、間髪を入れず橘は真顔で答える。
「そこをなんとか、なぁ」
「絶対に、駄目です。酒と煙草に関しては、社長は一切信用できませんので」
「し、信用できねぇたぁどういうことだ」
「もう忘れたんすか。三年前、会社ここの冷蔵庫から、忘年会用のビールがごっそり消え……」
 ああ、もういいもういいっ、と神戸は、天狗のうちわ並みに大きく分厚い手でしかめっ面を仰ぐ。
 圧倒的だった神戸の威圧オーラが、子猫のように見る見るしぼんでいく様子を、社員たちと安岡はにやにやと眺め、バイトたちはぽかんとした面持ちで見つめていた。
「洋平、そんな怖ぇ顔しなくてもいいじゃねぇか」
 橘の太い眉とぎょろりとした目は確かに強面寄りだが、神戸とどちらが怖いかは、幼稚園児でも見分けがつくだろう。その前に子供が泣くか逃げ出すであろうことは言うまでもないが。
「社長、こりゃあ若に一本取られましたな」
 眼鏡を掛けたごま塩頭の社員に冷やかされ、神戸はむっつりと黙り込んでしまう。
 その前で直立不動の姿勢を取っていた安岡は、何とも言えぬ顔をした橘に、笑いを噛み殺した含みのある強面を向ける。
「それでは、一●搾りとノンア……」
 あっ、すみません安岡さん、と、慌てた声で橘が遮る。
「えーと、まずは、俺ん……社長んへお願いします」
 こっそり目くばせをした橘に、安岡は何かを察した表情になると、
「うっす、承知した●●●●であります」
 大きくうなずき、きびすを返すと大股で戸口から外に出た。
「んじゃ、俺もちょっと……」
 不満げな神戸をよそに、橘も安岡のあとを追っていく。
 暗がりの駐車場は室内よりも風があるだけやや涼しい。安岡は玄関前に停めたライトバンの後部荷台から、一●搾りの二十四本入りのケースを引き出していた。
「駄目っすよ先輩、琢さん●●●には全部ビールだって言ってるんすから」
「いや、すまんすまん。――にしても貴様、『若』なんて呼ばれてんのか、その顔で」
「か、顔は別にいいじゃないすか」
 あれは、柳井さんが勝手に……と、橘はもごもごと唇を尖らせると、
「それに、先輩だって人のことは」
 からかい半分だった安岡の顔からにわかに笑みが消える。すっと動いた右手が橘の股間に向かう。だが、そこへ到達する前に、橘は腰を素早く引いた。安岡の手はギュッとくうを握り込む。
 剣豪同士の果たし合いにも似た張り詰めた空気が瞬時流れた。
「貴様、橘のわりになかなかやるな」
「安岡先輩には若い頃からだいぶ鍛えられてるんで」
 二人は歯を見せて笑い合う。
 橘もまた神戸・安岡と同じく飛流大学応援団部出身であり、彼らの後輩にあたる。橘が現役団員の時は、当然安岡に敬語を使っていたものの、公私ともに神戸のパートナーであることが判明してからは、安岡が橘に敬語を使うようになった。さらにこの引越センターにおいては、橘が安岡よりも先輩にあたることが事態をよりややこしくしている。互いに敬語とタメ口がごっちゃになった末、二人だけの時はタメ口を交わす仲に自ずと戻っていった。
「あっ、良かったら俺、そっちのビールじゃないほう●●●●●●●●●一つ持ちますけど」
「そこまで持ちてぇなら」
 これを持ってろ、と荷台から抜き出したあたりめとナッツのおつまみパックを、橘の胸に押し付けた。
 きょとんとした顔を見せた橘が、冗談めかして唇の端をオーバーに上げる。
「注文してない分の金は払いませんよ」
「なーにを言っとるっ、俺がそんなケチ臭ぇ男に見えるか」
 大きな目をことさらに開いて啖呵を切った安岡は、二つ重ねた飲料入りケースをどっしりとした腰の前で抱え、胸元まで軽々と持ち上げた。
「俺はいま酒屋で貴様は客だ。客に重い荷物など持たせられるわけなかろうが」
 橘と安岡は、駐車場の屋外灯がほの暗く照らし出す裏道を通り、プレハブとほぼ密着した平屋の玄関前に立った。すでに戸口の明かりは点いており、焦げ茶色のアルミドアの隣に、
 神戸
 橘
 と筆文字で彫り込まれた、木の表札が掲げられている。
 安岡の前に立ち、カーゴパンツの前ポケットを手で探っていた橘は、「……あれ?」と首を傾げた。
「どうした」
「家の鍵、仕事場あっちに忘れてきたみたいで」
 プレハブの方向を指差した橘に、安岡は団子っ鼻を鳴らしてビールケースを抱え直すと、
「待っとるからさっさと取ってこい」
「あ、大丈夫っす。合い鍵あるんで」
 橘は尻ポケットから財布を取り出し、チェーンでつながっている鍵で、あらためてドアを開錠した。
「うわ、暑っ」
 室内にこもっていた熱気が一気に外へ流れ、橘は、顔をしかめて独り言を漏らす。手探りで照明のスイッチを点けると、サンダルやスリッポンが散乱している手狭な三和土たたきが現れた。空いている場所に、橘は白い作業靴を、安岡は踵をつぶしたスニーカーを脱いで、隣の台所に入った。
 明かりに照らされた室内は、使用済の食器が流しに積み上げられ、戸棚にはインスタントラーメンが五、六個しまわれている。いかにも殺風景な男所帯といった様相だ。
 部屋にはエアコン自体の姿がない。橘は、息を切らしながら一目散に壁に駆け寄り、窓を全開にした。直ちに涼しくはならないが、小さく聴こえる虫の音がかろうじて秋を感じさせる。
「じゃ、すんませんけど、ビールとノンアル●●●●は冷蔵庫の空いてるところに三本ずつ、残ったやつはいつものところでお願いします」
「もう少し多く冷やしておかんでもいいのか」
「ほら、あればあるだけ飲むんで、琢さんあのひと
「だよなあ」
 安岡はケースから取り出した各々の飲料を三本ずつ冷蔵庫に入れると、床下収納庫の蓋板を上げ、煙草のカートンや洗濯用洗剤が収まる庫内に残りを手際よく詰め込んでいった。
「にしても、神戸先輩、いつからああなったんだ」
 自分のぼさついた短髪に触れる仕草をしながら、安岡が訊く。
「……アレのことすか」
 橘も頭に手をやりながら、うなずく。
「ぶっちゃけ自分でもハ……薄毛を気にしてたみてえで、こっそり毛生え薬使ってたみたいなんすけど、こないだ散髪から帰ってきたら、突然あんな頭になってて」
 俺、どうリアクションしたらいいものか、すっげえ困っちゃって……と、橘は、唇の両端をぴくぴくと上げ下げする。おそらくその時の自分の顔付きを再現しているのだろうか。
「誰かそれを、先輩に直接指摘した者はおるのか」
 まさかまさかまさか、と橘は激しく首を横に振る。
「……だろうな」
 強面同士が別人のように情けない顔を見合わせ、揃って肩を落とす。
「それで、あの」
 飲料を詰め終わり蓋板を閉めた安岡に、橘がわずかに表情を曇らせた。
「ん、どうした」
「安岡先輩にちょっと相談したいことがあるんすけど……いいすか」
 安岡は真顔になると、数瞬考える素振りを見せてから、「ひとまず座るか」と傍らの白いテーブルを指した。向かい合って席に着く。
「他言無用でお願いしたいんすけど、こないだ会社うちの健診で琢さん、肝機能と血圧の数値が少しヤバい結果出てたみてえで」
「――と、神戸先輩がおっしゃっていたのか」
「んー、俺がたまたま郵便の状差し見たら、封を切った検査結果突っ込んでて」
「そうか……」
 四角いひげ面をしかめた安岡は、分厚く盛り上がった胸板の前で毛深い腕を組み、考え込むように目を閉じる。
「酒屋の俺が、酒を飲まんでくださいとはさすがに言えんしなあ」
「ビールは一日五、六本から、二本までになんとか減らしてもらったんすけど、煙草のほうは相変わらずで……」
「なんなら、煙草そっちの件は俺から先輩に申し上げておくか」
「いや、これは俺の役目だから……」
 橘は自分に言い聞かせるような表情で、首を振った。
「琢さんには一日でも長生きしてもらいてえし。俺の言うことなら少しは聴いてくれるかと」
「――そうか、そうだな」
 了承したとばかりに、安岡は二、三度大きくうなずいたものの、すぐに太い眉の間に軽くしわを寄せる。
「だが、このことが先輩にばれたらどうするんだ、俺は責任持てんぞ」
 橘が「えっ」と目を丸くする。
「……貴様、先輩が飲むビールをノンアルにすり替えとるんじゃないのか」
「ンなことしたら、マジで殺されるっすよ……」
 じゃなくて、と橘はため息をつく。
「一●搾りは琢さんが飲んで、ノンアルは俺が飲むんす。単純に安いし、俺は――それほど酒、好きじゃないから」
 一瞬あぜんとした安岡は、徐々に納得した表情へと変わった。
「案外、貴様と先輩はうまくいっとるようだな」
「安岡先輩こそどうなんすか」
「ん?」
「あの、田上さんっていう、すげえイケメンの人。あれ●●以来ずっと団のOB会に出てないっすけど、元気にしてるんすか。――ま、俺も琢さんがこれ●●でいつも第二部には出られないんすけど」
 両手の人差し指をつのに見立てて、頭の上に突き出してみせる。だが、それまで穏やかに話をしていた安岡は、ああ……と、わずかに困ったような顔付きになった。
「……まあな」
 言い渋るがごとき間が空いたのち、安岡は、
「そのうち、機会があったら話す」
 と、急に椅子から立ち上がり、
「またなんかあったら、気軽に声掛けてくれ。月曜ならうちの店は休みだから引越仕事もできるしなっ」
「あ、あの……」
 怪訝な顔で橘がさらに口を開き掛けたが、安岡は、それじゃあな、とだけ言い残すと、慌ただしくどたどたと立ち去ってしまった。

 一時間が経った、午後九時過ぎ。
 橘が、安岡と一度部屋に入った時に窓を開けておいたため、家の暑さは多少ましになったが、せいぜい熱湯風呂がぬるま湯になった程度の効果しかない。
 居間のちゃぶ台には、半熟卵が載った焼鳥丼、カニカマと切り干し大根のはりはり和え、そして、透明なグラスが二人分支度されている。先に食卓に着いた作務衣姿の神戸の隣で、扇風機がうなり音を立てて首を振っていた。
 食卓のそばでテレビは、十月の初日に半袖で街を歩く人たちや、額の汗を拭う信号待ちの勤め人の姿を映し出している。
 二人とも調理は不得手であり、同棲を始めてから七年ほどは外食か弁当屋、コンビニ弁当で済ませていたが、今年に入ってからは、食材宅配業者からミールキットを配達してもらっている。世界的な感染症騒動以降、頻繁に流れるようになったテレビCMを見た橘の提案であった。
 半分調理された食材をレシピ通りに作れば、栄養バランスの整った料理が手早く出来上がる。ちゃぶ台に載っている品々も、二十分ほどで橘がこしらえた。
 感染症に翻弄ほんろうされ続けたここ数年だが、それがなければ、いまだに食事が弁当かレトルトであっただろうことを考えると皮肉な話でもある。
「琢さん、お待たせ」
 紺のジャージに着替えた橘が冷蔵庫からアルミ缶を二本持ってきた。一●搾りを神戸の前に、ノンアルコールビールを自分の席の前に置く。
「んじゃ、今日もお疲れ様っし……」
「ちょっと待て」
 無愛想に神戸が、低い声で遮る。
「え、なに……」
「たまには、そっちのヤツも飲ませろ」
「えっ、でも、これは……」
 戸惑う顔を見せる橘をよそに、神戸は渋面のまま、橘のノンアルビールをひったくる。すぐさまタブを開けると、自分のグラスに注ぎ、自分の一●搾りを橘のグラスに注いだ。
「おめえはこっちを飲め」
「もしかして、琢さん、さっきの話聴いて……」
「いいから、飲・め・っ!!」
 疑問符を顔に浮かべたままの橘を、神戸は軽い巻き舌で凄みをきかせ、ぎろりと睨み付けた。
「……じゃ、今日も一日お疲れ様」
 橘の言葉で、二人はそれぞれの飲料に口を付ける。
「……あー……美味い」
 思わずといった様子で声を漏らした橘は、まごついて自分の口をふさぐ。神戸は無言で、ビールに似た液体を口元に運んだ。
「この『ビール』も、なかなか悪くねぇもんだな」
「なら、これからずーっと、そっちにする?」
 神戸は、飲んでいたノンアルビールをブッと吹き出しそうになった。
「ま、まぁ、一週間に……いや、一か月に一、二回ぐれぇならな」
 もごもご口の中でつぶやいてグラスを置くと、木製の丼を手に取り、話を打ち切るようにガツガツと掻き込んだ。
 テレビは、ディスカウントストアで九月のうちに第三のビールを買い溜めする客の話題を伝えている。昨年までは、煙草にせよビールにせよ、値上げ後に気付いた神戸が大騒ぎするのが〝恒例行事〟であった、が――。
 橘は、切り干し大根を箸でつまみながら、ちらりと神戸の様子を窺う。神戸は黙って、焼鳥丼とビール――ではなくノンアルコールビールを交互に口に運んでいる。
 淡々と食事が続くなか、ふと、神戸の箸の動きが止まった。
 橘が顔を上げると、大方食べ終わった神戸が、闘犬を思わせる形相で橘を睨み付けていた。アルコールは含まれていないはずなのだが、サウナに長居している客のように顔が赤い。
「どうしたの」
 普通の人間なら思わず後ずさるところだろうが、橘は長年連れ添った妻、もしくは夫のように涼しい顔のまま、食事を続ける。
 神戸は、軽く咳払いをすると目の前の液体をぐびりと煽った。空になったグラスをダン、と音を立ててちゃぶ台に置くと、
「おい、ちょっと手ぇ見せてみろ」
 橘は面食らった顔で箸と丼を置き、そろそろと右手を出した。
 その手を強く引き寄せると、ふむ、と神戸は太い指で、手のひらのあちこちにできたマメを撫でさすった。橘は黙って触らせるものの、戸惑った面持ちは隠せずにいた。
 一通りの〝検分〟が終わると、神戸は再び闘犬顔に戻り、
「おめえ、俺のあと継ぐ気あるか」
「な、なんすか急に……」
 まさしく虚を突かれたように、橘は目を丸くした。
「勘違いすんな、今じゃねえ」
 食い気味に神戸が返す。
「むろん、ただ口開けてりゃ社長になれるなんて思うな。俺の目の黒いうちは、まだまだみっちりしごいてやる。それは忘れんじゃねえぞ」
「う、うっす!!」
 きょとんとしていた橘は、即座に胡坐から正座へと座り直す。
 神戸が、空になった自分のグラスにノンアルコールビールを注ぐ。
「ところで、だ」
 汗を浮かべた顔を一度下に向けてから、目の前の液体を半分喉に流し込むと、
「おめえ……こんなハゲオヤジになっちまった俺のこと、どう思ってる」
「……へ?」
 想像していなかったであろう問いに、橘はいっそう目を大きく見開いた。
「いや、俺はもともとホモじゃねえし、ンなこと訊かれても……」
「……そうか」
 視線をさまよわせ、力なく声を落とす神戸。その様子を見た橘は、多少うろたえつつ「あっ、もちろん冗談っすよ、冗談」と神戸ににじり寄る。
「八年も同じ屋根の下に住んでて毎日アレもヤッてて、今さら好きも嫌いもねえじゃねぇっすか」
 にやにやと笑って、分厚い肩に後ろから両手を回した。
 橘に抱き着かれた神戸は、苦虫をかみつぶしたような顔になると、またグラスを持ち上げ、中味をぐいと飲み干した。
「すまねぇが……一本だけ煙草、吸ってもいいか」
 いかつい顔を覆うひげの下で、厚い唇がもぞもぞと動く。
 絶句した橘は、軽く口先を尖らせ、
「どうせ吸うんだったら、俺の……」
 ま、いいけど、と立ち上がり台所に向かう。
 セブン●ターとアルミ製の灰皿を持って橘が戻ると、ちゃぶ台の端に皿が寄せられ、真ん中に使い捨てライターが置かれていた。
 橘は何も言わず、その横に煙草と灰皿を置く。
「これだけは、なかなかやめられねぇ」
 神戸は誰に言うでもなく弁解をして、煙草に火を点けると深く吸った。紫煙を吐き出してから、すぐに灰皿で揉み消すと、
「今度、休みを取って釧路に行く」
「……えっ」
 橘の口がぽかんと開いた。
「おふくろの葬式以来田舎に帰ってねえが、そろそろ俺たちのことも、けじめを付けねえといかんからな」
「じゃあ、俺も一緒に……」
 身を乗り出そうとした橘に、神戸は苦い表情で首を横に振る。
「俺は四十年近く前、ホモがばれて家族と大喧嘩したあげく、釧路を飛び出してきた。――おめえも嫌な思いするかもしれんぞ」
 橘は、なんでもないことのように笑顔を見せ、再び神戸の背中に抱きついた。
「構わねぇっすよ」
 今度は神戸が面食らった顔で口を開き掛けたが、ごまかすように小さく咳払いすると、
「ただ……なんせ釧路までは行くだけで一日がかりだからな。二人揃って二日も三日も休みを取るわけにはいくめぇ」
「まさか列車で、ってわけじゃないっすよね」
 橘は、ジャージのポケットからスマホを取り出すと、素早く指を動かした。
「ほら、飛行機なら朝十時に東京を出ても、午後二時過ぎに釧路に着くし、その日の最終便で帰れば、三、四時間ぐらいは向こうにいられるっすよ」
「いや……」
 経路案内アプリの画面を見せられた途端に、神戸の顔色が変わる。
「飛行機は、駄目だ。――あれは、高過ぎる●●●●
「あっ、代金なら、俺が……」
「金の問題じゃねえっ」
 額に滲ませた大粒の汗が飛び散るほど、神戸は激しくかぶりを振った。
「とにかく、飛行機には乗らねえっ」
 にべもない態度に、橘は、ただ首をかしげていたが、
「あーっ、もしかしてぇ」
 ふと、その顔に笑みが広がる。
「琢さん、飛行機怖いとかぁ?」
 一段階高く声を上げ、渋い顔を続ける神戸の僧帽筋にぐりぐりと胸板を押し付けた。
 ねー飛行機で行こうよー、いや、行かねえ、とのやり取りの末、
「あっ、そうだ」
 筋肉で盛り上がる作務衣の肩にあごを乗せた橘の目が輝いた。
「なんだ」
「俺が先だったら●●●●●列車と飛行機、別々に釧路まで行って、琢さんが先だったら●●●●●一緒に飛行機で行くってのはどうすか」
「……ぐっ」
 返す言葉を失ったかのように、神戸は口ごもる。
 しばらくの無言が続く。
 神戸に抱きついたまま、焦れたような顔を見せた橘の手が、厚い胸板と突き出た腹を撫でさすり始めた。
「俺が付いてるから、大丈夫っすよ」
 橘は、汗みずくの神戸の顔に真剣な表情を近づけると、そのまま唇を――。
 そこへ轟く、号砲一発。
 突然の放屁を喰らい、橘は「うわっ」と叫び、大きくのけぞった。
 すっくと立ち上がった神戸は、い草のござ●●の上でひっくり返った橘をよそに、ドスドスと足音を立てて廊下に出る。
「あ、あの、琢さん、どこへ」
「やんのか、やんねえのか、どっちなんだ」
「は、はいっ」
 うろたえて廊下に飛び出した橘は、神戸を追って寝室に掛け込んだ。

 これは全年齢向けの小説であるからして、ここでこの話は終わりとなる。
 ただ、続きが気になる方のために、少しだけ先を記しておこう。

 ――数十分後。
 寝室の扉の向こうから聴こえてきたのは、男二人の激しい息遣い、そして……。
「ここ……ぉで、尽くすぞっ、我がベスト、ぉぉぉ」
「オラッ、もっと声を張り上げんかっ」
「た、琢さん、本気出し過ぎ……っすよ」
「バーロイ、おめえが俺に勝負を挑むなんざぁ……っ、百万年はええんだよ!」
「あっ、あっ、ぁぁぁ……ヤべっ、俺、もう……」
 中で一体何が行われているのか。
 それは、読者諸兄姉しょけいしのご想像に委ねることとしよう。
 では――

「俺……やっぱり琢さんと一緒に釧路まで行きたいんすよぉ」
「……も、だよ」
「えっ、もうちょっとデカい声で」
「……っ、何度も言わせんじゃねぇ!」
「ぐ、ぅぅぅぅっ……すげぇ、すげぇよっ」

 まだ続いているようだが、まずはこの辺で。

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