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【生活日記】2023年4月14日 欧州アニメ史とつげ義春に思いを馳せ、柳宗悦から学ぶ一日。

8時50分起床 8時59分出勤。本日は始業に間に合う。形式的とはいえ「間に合った感」を覚えながら一日を始めるのは悪くない。

本来月初から週ごとに終わらせておきたかった業務が溜まりに溜まって3週分。今日こそは確実に終わらせて全国の営業所に案内を出す。

金曜はKさんがお休みなので、作業をしながらLINEでおしゃべりする。基本的に他愛もない話ばかりだが、時折今後のことについても真面目に相談する。

Kさんが外出しておしゃべりが途絶えたタイミングで柿内正午さんのポッドキャスト『ポエティークRADIO』を聞く。日記屋 月日を運営されている蟹の親子さんとの対談回がどれも面白い。日記本の出版にまつわる周辺事情が語られていく。自分でなにか印刷物を作ってみたい人は必聴の内容だろう。

昼食は相変わらずホットクックで和風わさびパスタ。何の代わり映えもないのでそろそろ飽きてきた。

昼休みの残り時間はMUBIで『Laloux sauvage』を視聴。『ファンタスティック・プラネット』でおなじみルネ・ラルーへのインタビュー映像を含むドキュメンタリー作品だ。世界恐慌の年でもある1929年にルネ・ラルーは誕生する。幼少期の話はそこそこに20代後半から取り組んだ、精神病院でのワークショップに話は移る。患者と共作した影絵アニメが平日プライムタイムでテレビ放送されたことを誇らしげに語る。その後も様々な出会いがあり、短編アニメの制作を続け、1973年の『ファンタスティック・プラネット』につながる。この作品はフランス・チェコスロバキアの共作となっているが、どうやら彼の証言によるとチェコスロバキアにあるスタジオへの「外注」がより実態に近い表現のようだ。当時は共産主義体制だったプラハのアニメーターとのやりとりが興味深い。最終的にコストがかかりすぎて制作が頓挫しかけたことを豪快に語る。ちなみに後期の作品『ガンダーラ』では北朝鮮のスタジオにも外注していたとか。高齢で伝説的なアニメーターと聞くと、スタジオ・ジブリを率いる宮崎駿のようなちょっと神経質な先入観を持ってしまうが、ルネ・ラルーは「豪快な爺さん」と評するのがぴったりだろう。ぼんやり観ていたので英語字幕の意味がところどころ欠落してしまった。できることなら日本語字幕でもおさらいしたい。

『Laloux sauvage』by Florence Dauman

ルネ・ラルーに関する作品を観ていて、MUBIでしばらく前にハンガリーのアニメーション特集があったのを思い出した。とにかく社会批評やアヴァンギャルドな映像表現が多かった印象。もちろんヨーロッパには子供向けとして発展してきた「アニメ史」もあるのだろうが、シュールな表現で芸術性の高い作品が育ってきた「アニメ史」からも振り返ると面白そうだ。つげ義春が高く評価されるのもよくわかる。

『Hé,Te!』1976年のハンガリー発アニメーション。これは何度観ても傑作。

こうしたヨーロッパのアニメーションの歴史を鑑みると(めちゃくちゃ暴論かつ短絡的だが)、2020年にアングレーム国際漫画祭で受賞したつげ義春との親和性は素人の目にも明らかだ。しばらく前に読んだ『つげ義春名作原画とフランス紀行』に収録されていた作品と比べると、彼のやろうとしていたことが同時代のヨーロッパの作家たちの表現には少なからずシンクロニシティを感じる。

『つげ義春名作原画とフランス紀行』by つげ 義春・つげ 正助・ 浅川 満寛

午後からも引き続き同じ作業を続ける。15時ぐらいで目処が付き、3週間分のメール案内を終える。給与に関わることなので、単純作業の割に神経を使いどっと疲れた。

気分転換に青空文庫の柳宗悦作品リストから『京都の朝市』をiPhoneで音声読み上げにかける。

併し有難いことに、道具屋と私共の眼のつけ所に、中々喰い違いがあるのである。だから後から出掛ける私達にも、目こぼしの品が相当に恵まれるわけである。人々が注意を払わず、市価がてんでない品の中に、色々よいものが現れてくる。昔ほどの朝市では決してない筈なのだが、それでも見過ごして了うには、勿体ない猟場であった。それで雨が降らなければ、大きな市には、まめに足を運んだ。
 売手の大部分は婆さんであった。好個の内職になるに違いない。大体昼頃で市は終って了うから、買手も早くから集ってくる。度々吾々も出かけるので、しまいには婆さん達と顔なじみになって、吾々のために物をとっておいてくれたりするようになった。

青空文庫 柳宗悦著『京都の朝市』

柳宗悦御一行が朝市にでかける頃には、たいてい道具屋がめぼしいものを買い漁ってしまう。だが道具屋が目もくれない価値のない品々の中にこそ良いものを見いだせる。いつのまにか売り手の婆さんたちもめぼしいものをとりわけてくれるようになる、との微笑ましいエピソード。

この時期を振り返る文章が同じく青空文庫の柳宗悦著『四十年の回想』に見つけられる。

ところが河井から京都の朝市の事を聞き、早朝の市日を熱心に漁あさった。商人が鵜うの目鷹たかの目で漁あさった後に吾々のような素人が行くのである。良い品はないはずなのだが、見処が違うおかげで、その目こぼしの中から種々の佳品が現れ始めた。その市場の婆さんたちに「檀那だんなたちは『下手げてもの』が好きだねえ」等といわれて、初めて「下手もの」という俗語を教わり、その語感が面白く、「お婆さん今日は『下手もの』はないかい」等とこちらから聞くようになった。私が『越後タイムス』に吉田正太郎君の仲介で「下手ものゝ美」(後に「雑器の美」と改題し本書にも掲載)と題しこれを発表したのが大正十五年の秋であった。

しかし「下手もの」なる言葉は俗語だし、語音の調子が面白いせいか、この言葉は忽ち伝播でんぱし「下手もの好き」とか、「下手趣味」とかいう表現まで生れ、ついには公に「下手もの展」などを開く骨董商こっとうしょうが現れ始めた。これに伴って見当はずれの見方も漸次多くなり、誤解を招きやすいこの言葉を避ける方がよいと思われ、大正十五年正月のこと偶※(二の字点、1-2-22)たまたま河井や浜田と高野山に旅した時、一夜宿房(西禅院)で何か適当な言葉はないものかと話し合いついに「民藝」という言葉を生み出した。元来は「民衆的工藝品」の意味であった。民衆品は貴族品に対し、工藝品は美術品に対する言葉なので、心持は「民間で用いられる日常品」、つまり広義の雑器の意なのである。

青空文庫 柳宗悦著『四十年の回想』

古道具屋が目もくれない品が『下手もの』と呼ばれているのを面白がる。「今日は下手ものあるかい?」と朝市で遊んだり『下手ものゝ美』について文章を書いていたら言葉が一人歩きを始める。それがのちに『民藝』という言葉が生まれるきっかけとなる。一大ジャンル誕生の流れは時代が変わっても一緒だ。

人が目もくれないジャンルを掘り下げて、新たな様式美や価値を見出す柳宗悦の手法は、アナログレコード掘りに勤しむコレクターの姿にも重なる。誰かのお墨付きを追うのも楽しいが、唯一無二の感性で突き進むのも悪くはないと思った。願わくば自分があるジャンルの第一人者になれたら、そんなに嬉しいことはない。

夜にミーティングのために出かける。終了後、T氏に結婚の予定について伝える。さぞかし衝撃を受けたようだ。愚かな選択に見えるだろうがこればかりは仕方がない。

帰宅後にKさんに電話で報告。モヤモヤすることもあるだろうが、選んだ道を正解にしていくしかない、とジェーン・スーさんの受け売りでなだめる。

深夜1時に意識を失う。

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