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好きな人や物が多過ぎて


好きな人や物が多過ぎて 見放されてしまいそうだ

虚勢を張る気はないのだけれど
取分け怖いこと等ない


                              「月に負け犬」/  椎名林檎


紛れもないこの名曲を力強く歌い上げるのは、私の敬愛する椎名林檎女史だ。

これを書き上げたのは若干18歳の頃。契約交渉の際に、レコード会社の人間に「結局、虚勢を張ってんだか張ってねえんだかわかんねえんだよ!」と怒鳴られたという曲で、そのとき何も言い返せなかったために、タイトルが「負け犬」になっているという。  (※Wikipediaより抜粋)




「 好きな人や物が多過ぎて 」


高校生の頃、はじめてこの曲を聴いた。
私はあぁなんて羨ましいんだろう、と思った。

見放されてしまいそう、だけど、取分け怖いこと等ない。誰に何を言われようと、私は私の好きな人や物を(恐らくそして自分自身の価値観を)貫き通すという彼女の意志の強さを感じる。

当時の私はちょうど思春期真っ只中で、自分の生きづらさを感じはじめた頃だった。周りの友達はなんだか私より随分と呼吸をするのが楽そうだ、なんて自意識過剰にも思ったりしていた。



「 嫌いな人や物が多過ぎて 」

私は、林檎女史とは真逆の人間だった。
目や耳にするものが、様々に不愉快だった。

幼い頃から無意識のうちに、なにかと神経質な子どもだった。25歳を過ぎてから、やっと自分がHSPという性質に深く当てはまることを知るまでは、世の中に不快なものが余りにも多くてとてつもなく苦しかった。今もそれが減った訳では無く体質を知ったという程度なので特段変わらないのだが、それでも幾分か気持ちが落ち着いた。

HSP、共感性羞恥、エトセトラ。

文字にするとこんなにも簡単に済むのだけれど、それぞれをひとつずつ紐解いてゆくと厄介だ。
(先に言いますと今からめちゃくちゃ偏見だらけの話をしますので、ご気分を害された方は本当にすみません)



たとえば、顕著なのはテレビ。
最も嫌いなのはドッキリ番組。驚かされる系はまだ大丈夫だが、特に怒られる系が耐えられない。なぜ罪もない人が一方的に怒られないといけないのかが本当に理解できない。

CMも苦手なものが多い。特に通販番組の化粧品。わざとらしいエェーーッという出演者や聴衆の反応がむず痒くて仕方なくなる。有線チャンネルのクレンジングのCMが特に苦手で(細かい)必ずその瞬間にチャンネルを変えなければいてもたってもいられなくなる。

あとは音量。大きすぎると息が苦しくなってくるので、空気に紛れるみたいな音、と父から揶揄されてしまうような音量で過ごしている。


ただ、自分のことだけならまだ良いのだ。
周りの人や物の、ものすごく細かいことも、気になってしまうからタチが悪い。



たとえば、Twitterの診断メーカー。
毎回毎回トレンドに並ぶ度に「それを診断したところで、一体何になるんや?」と思ってしまってもう見ていられない。(本当に偏見が酷くてこじらせ倒してます、すみません)

あとは、浴衣の袷がだらしなく開いている人。
美しくちゃんと着てくれえい!!!と、夏になるたびに思う。見ず知らずの人にここまで思うのはやばいと分かってる。だけど、仕方ないのだ。一度気になったらもう止まらない。

学生時代は自らの意思で悪意を持って授業を止める子がとんでもなく許せなかったし(だから9年間学級委員長をしていた)、目配せしてるのに全然気づいてくれない店員さんも、傘を後ろに突き刺しながら悠々と闊歩するおじさんも、

ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、大嫌いだ。





「 取分け怖いこと等 」

でもほんとうは。
周りの目や自己評価をずっと気にして、嫌いなものを嫌いと言えない自分が、情けなかった。音量が大きすぎると言えない自分が。あのテレビ面白かったよねと合わせる自分が。

私はずっとずうっと、取分け怖いことばかりだったよ、林檎さん。



だけど、それもまた私の生き方なのかも知れないと一方では分かっている。それが嫌いだとふいに言ってしまったあとの空気に、私はまだまだ耐えられないのだろう。

大人になって、性質を知って、前よりもすこし嫌いなものに塗れた自分を赦せるようになって。
いつの日か、自らにも周りにも過ごしやすい場所を提供できるような人間になってゆければいいのに、なんてのんびり構えるに今は過ぎない。




今宵も、耳を突き刺すような大嫌いな雨の音が聴こえている。ふと手を止めて観たCMの途中で、無意識にチャンネルを替えた自分に苦笑いをして。


あぁこんな夜こそ、椎名林檎を聴きたい。







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