掌編小説 | 眠れぬ夜に塩をひと匙
「りんご」
定石通りはじめたその3文字には、1分も経たないうちに既読がつけられた。
「胡麻豆腐」
程なくしてから画面に浮かんだ吹き出しを見て、感嘆の溜息が漏れる。それは、どう考えたって完璧な回答だった。意図も意味さえも問うことなく、しかもほぼ万人が返すであろう「ゴリラ」ではない絶妙なワードチョイス。明らかに今朝教室で見た “都こんぶの人” らしい独特のユーモラスな片鱗を感じて、しずかな部屋で一人にやけが止まらない。
深夜1時15分。数秒だけ迷った後に文字を打ったまっさらなトークルームは、履歴にも並んだことがない見慣れぬアイコンのものだった。【町田 篠】一風変わったその字面は大学の友人である彼のフルネームだ。1年前の新歓だかBBQだか、いつかの自己紹介で初めて交わした言葉を今でもよく憶えている。
「町田くんの下の名前、しの?って珍しいよなぁ。」
「橘さんこそ、野風、も一発で覚えられるやつやん。」
そして「…のかぜ」ともう一度確かめるように唇を動かした彼の横顔が、不思議とどこか満足気な笑みだったことも。
家族も友達もサークルの先輩やバイト仲間だっているはずなのに、それでもみんなどこかちょっとだけ違う夜がある。今夜はやけに加湿器がこぽこぽ鳴っていて、あぁ今わたしは世界に独りだな、と思考が止まった瞬間、眠気は遥か彼方に消えてしまった。心臓の表面がざらざらしてひどくむず痒い。暗闇の中で必死にスマホを弄ってみたものの、誰かの華やかな写真を見るのも誰かの愉しげな声を聴くのも余計にこの孤独を際立たせるスパイスになる気がして手を止めた。あんこを炊く時に塩をひと匙だけ入れると甘みがぐっと増すんですよ、という知らぬ間に記憶に刻まれた謎の情報が突如、脳裏を過ぎる。
そんな時、今朝見た町田くんのことをふいに思い出した。のべっとした長身、猫背、切長の奥二重。斜め前の席で黒いリュックから取り出され整然と机上に並べられていった、スマホ、ノート、濃紺のペンケース、水500ml、都こんぶ。
「みやこ、こんぶ、」
思わず口に出してしまったわたしに
「要る?」
と、おおきな身体を捻って真顔で訊ねてくれた彼とやりとりした、ただそれだけの短い会話。
特別仲良くもなければ、苦手な訳でもない。それなのに、今夜わたしのざらついた気持ちを鎮めてくれるのは町田くん以外いないと唐突に猛烈に思い始めてから、こうして指が動いてしまったのだ。
「二日酔い」
「イミテーションゴールド」
「どっちつかず」
「ずん飯尾」
「おいでやす小田」
数分おきにポコッポコッと鳴る通知が、加湿器の奏でていた不協和音と溶けてゆく。次第に眠気の押し寄せたわたしが翌朝目にしたのは「脱獄計画」というなんとも物騒な4文字だった。く、く、と呟きながらカーテンを開けて思いっきり伸びをする。よく眠れた、幸福な朝。
「曇りのち雨」
通勤通学で混み合う京阪電車に揺られながら、今日の天気から拝借したワードを送信。町田くんとわたしの気まぐれなしりとりがはじまったのは、分厚いコートの季節が終わりを告げる頃のことだった。
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「夏休みにしたいこと」
「特になし」
「強いて言えば?」
「バイト以外の、サムシングスペシャル的な」
コートを脱いでやがて半袖に切り替わっても、わたしたちは未だに細々としりとりを続けていた。最初は単語だけを連ねていたのが徐々にレベルアップしてゆき、今では会話まで成立している。日に何度も交わすこともあれば、数日スパンが空くこともしばしば。互いに無理強いはせず、それでも尽きることも決してない。その一方、大学で顔を見て実際に話すのは、おはよう、お疲れ、ほな、くらいで。妙な関係の妙な心地良さは密かな日々の娯楽へと変わっていたけれど、以上でも以下でもなくただそれだけ、という感じがした。
大学からの帰り道、いつもの京阪電車。 2人掛けシートのリッチな車両ではなく横向きシートの日はハズレな気持ちになるのに、今日は向かい側に珍しく町田くん(とその隣で一方的に喋り続けている三ツ矢聡)が座っている。なんだか得した気分でぼんやり車窓を眺めていると、急にばちっと目が合った彼の握り拳がコンコンとスマホを控えめに叩いた。鞄から取り出した液晶に浮かぶ、一件のポップアップ。
「なぁなぁ、橘さんの左側に立ってるおっちゃん見て」
表示された文章に誘われてそうっと左を見ると、ハンカチで額の汗を拭う少々ふくよかな男性が。問い返す間もなく、新たな吹き出しが追加される。
「背中、かわいい」
かわいい?なにが?と再び確かめたその薄いブルーのワイシャツには、くっきりと滲んだ汗によって形作られたらしい濃いハートマークが浮かんでいた。笑いが堪えられず、思わず下を向いて唇を噛む。やられた。「いらんこと言わんといて、」波が落ち着くのを待ちながら返事を打っている途中で、三ツ矢聡の明るい声が耳に届いた。
「しのりん、今日ユーコさんの日ぃ?」
・・・ユーコさんの、日。理由もなくどくんっ、と鼓動のボリュームが上がる。
「せやから京阪乗っとんねん。」
「うわ、お迎え〜?何年経ってもやさしーなぁしのりんは。」
「別に普通やろ。向こうが来るより俺が行ったほうが早いし。」
「まぁせやけど。ユーコさんの職場、淀屋橋やっけ。路線の端から端やな。」
「大体座れるし、寝とけば着くから。さとっちゃんがベラベラ喋らん限りは。」
「よっ塩対応!ツンデレ王子!」
「お前にデレたことは一回もないで」
彼らがケラケラと笑い合う音の中、何故だかわたしはいつまで経っても送信ボタンが押せずにいた。
「あ、橘さんここなんや。」
最寄駅でドアの前に立った私を見つけて、誰にでもフランクな三ツ矢聡が声をかけてくる。
「せやねん。お疲れ、ほなね。」
「またなー!」
「・・・ほな。」
切長の目は何かを言いたげだったけれど、振り払うかのようにホームへと飛び出した。ジリジリと鼓膜をつんざく蝉の音は、こびりつく言葉達を消してくれない。ユーコさんの日、お迎え、何年経っても、向こう、職場。なんて容易いパズルなんだろう。
「ユーコさん、町田くんの彼女、長く続いてる、年上、社会人」
駅の階段を一段ずつ降りながら声に乗せて吐き出してみた答えは、たった今脳内で組み立てられたものとそっくり同じ絵柄をしていた。
「なんで、わたしは、ちょっと、ショック?」
新しく生まれたピースだけが手に余ってどこに当てはめれば良いのか分からないまま、直射日光が照りつく道路の端をのそのそと歩く。足が進まないのは気温のせいだと言い聞かせたいけれど、一生かけても徒歩5分の家まで辿り着かないような気がした。
入力済の文字を消した後「いつ暑いの終わるかな」と当たり障りのない文章を返したのはそれから三日後のこと。「いいデートでしたか」と一度だけ打ってみて、すぐにやめた。そう、孤独を際立たせるスパイスを自ら加えるなんてあまりにも馬鹿馬鹿しいことだから。
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サムシングスペシャル的なことなど起こる訳もなく、カレンダーの数字だけが淡々と進んでゆく。ユーコさんの件以来しりとりを止めるべきか悩んだけれど、結局気まぐれなやり取りは変わらず続いている。これが果たして恋と呼べるものなのか、余ったピースは今も掌に握られたままだった。
そろそろ厚手のコートが必要になりそうな夕方、いつもの電車で三ツ矢聡とばったり隣り合わせた日に世間話が途切れたタイミングで訊ねてみた。
「三ツ矢くん、今日は町田くんと一緒ちゃうんやね。」
さりげなさを装った声が上擦ったのは、丁度流れたアナウンスで誤魔化せただろうか。
「あー、しのりんそもそも電車通学の人ちゃうからなぁ。用事ある時だけやねん。」
「そうなんや。最近電車で見かけへんから。」
知ってるよ、ユーコさんの日やろ。狡猾なわたしは何も知らないフリをしてゆるりと微笑みを投げる。
「あ、でももう一緒にならんかも。アイツの用事無くなったし。」
「………へ?」
「彼女おってな、それで乗っててんけどちょっと前にフラれたらしい。橘さん口堅そうやからゆうけど、一応内緒な。なんでも喋る男ってモテへんやん?」
ガハハ、と笑う三ツ矢聡に「キミの良さは寡黙さよりも底抜けの明るさやで」と返してやりたかったけれど、とてもそれどころではなかった。適当な相槌をして電車を降りてから吐き出した、深く白い息。そんな素振りなどまるで見せず、普段通りにしりとりをしてくれた町田くんはどんな気持ちだったのだろう。
「ユーコさん、町田くんの彼女、長く続いてる、年上、社会人………と、別れた、」
嬉しくも哀しくもなく、突然の報せにただでさえ混乱している頭がぐちゃぐちゃになる。それでもただ一つだけ、町田くんがもう傷つきませんように、と思った。今までのピースをすべて鴨川にばら撒いて、その願いだけをぎゅうっと握りしめたいと強く思った。
「橘さん、サンタさんきた?」
「橘家は18歳で制度打ち切り」
「リアルなやつ」
「あけおめ」
「めでたいな!俺、正月太りやばい」
「嫌味ですかね」
「寝て食べて寝て終わりそー」
気がつけば、あの孤独な夜からもう1年近くが経とうとしている。どうして、町田くんだったのだろう。勢いで送ったとばかり思っていた「りんご」に、今となってはちゃんと理由が分かる。“みんなどこかちょっとだけ違う” からではなく、彼じゃなきゃ駄目だった。意図を瞬時に汲んでくれて、心地良い距離感で、真顔で都こんぶ要る?と訊いてくる、ユーモラスでフラットな町田くんに、どうしようもなく孤独な心を救われたかったのだ。
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「もうお花見できそうやなぁ」
・・・来た。次のあ、で切り出そうと決めていた。指先が、震える。
「あんな、ここでちょっとお話があります」
「すごい改まって、どした?」
「たのしいしりとり、1年間ありがとう」
「うん、こちらこそ」
「それでな、町田くんのこと、好きになりました。もうずっと前から、好きです。」
時間が止まったように動かないトーク画面で、突然電話が鳴った。
「………もしもし、」
「もしもし、俺。町田です。」
「ふふ、そやろな。橘です。」
「はは、えっとさ、」
「……はい、」
「好きです、俺も。気づいたら橘さんのこと、好きやった。付き合ってください。」
「………っ、」
「……え、ちょ、なんかゆうて、」
「……い、の上手い返しが、」
「ふはっ、あかんめっちゃおもろい。しりとりの病やな。とりあえずさ、うん、ってゆうてや。」
「……ん、って付いたら終わるみたいでなんか嫌やな、」
重症やんか、と町田くんは呆れたように笑っている。
「ほなまた新しく、始めたらええやん。」
「……、うん。」
それからいろんな話をして、少し照れながら教えてくれたことがあった。
「初めて名前の話した時さ、なんで野風って言いながらちょっと笑ったん?」
「あー、あれ。俺の名前、篠やん?しの、のかぜ、ってしりとりみたいやな、て思って。」
病の起源そっちやんか、と揶揄い合う愉快な日々は始まったばかりだ。たとえ途切れたとしても、何度だってまた始めればいい。しょっぱい涙でぐっと甘みの増すふたりの未来に想いを馳せながら、眠れぬ夜がやさしく更けていった。
・・・
この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』4月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「はじまる」。あたらしい生活がはじまる春の季節にぴったりな、6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。
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