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掌編小説 | 永い息継ぎ


 雨の日のランチタイムは、やはり売上が芳しくない。PC画面に浮かぶ本部への報告シートに並んだ苦い数字は何度見返したところで桁が増えることはなく、溜息を細長く吐き出していると店の奥から冴木先生の賑やかな声が段々と近付いてくるのが聴こえた。

 ・・・おはよざいまぁす、はよざぁっす、あ、上がり?おつーまたねぇ、おはよーす、シフト合うの久々じゃぁん。

 キッチンからホールまで流れるように一通りの挨拶とコミュニケーションを終えた彼女が最後に辿り着くのは、店内入口近くのカウンターブースだ。会計用レジの他にPCや電話が設置されたその狭い檻の中で、俺は一日の大半を過ごしている。

「ざいます、てんちょー、高橋くんまだ来てませんけどなんか聞いてます?あの子今日16時半入りでしたよね?」

 究極まで省略されたおはようございます、を添えて告げられた挨拶は、早急に今起こっている問題を知らせる為のものだった。

「冴木先生、はよー。え、んーっと、、特に連絡ないけど。あれ?事務所にいなかった?」

 連絡網代わりのLINEを確認して聞き返すと、当の先生は既にディナーの予約台帳をチェックしていたようでバインダーを見ながら「んにゃ、」と首を振っている。いなかった、ということだ。頭の中ではもう今夜の座席案内イメージを組み立てておられるのだろう。大学3年生ながら抜群のホール捌きを魅せる彼女がいる日といない日とでは明らかに売上が変化する為、俺を含めた社員陣から “冴木大先生” と崇められているスーパーアルバイトだ。今日も本来の出勤時間より早めに入ってはこうして自ら事前準備をしてくれていて、本当に頭が上がらない。

「・・・飛んだな。」
「いやいや先生、ちょっとご冗談を、」

 パタン、とバインダーを閉じた彼女に悪戯な笑顔で覗き込まれると冷や汗が出た。マジ?と目で訴えかけると、マジ。と先生の目が語っている。一縷の望みをかけて鳴らした電話は案の定いつまで経ってもコール音が響くだけで、一応送ったLINEには既読が付きそうもない。マジだわ・・・とこぼした泣き言は、ダハハッという完全に面白がった声で飲み込まれてしまった。おいおい笑い事じゃねえんだわ。

「高橋くん、こないだの月曜トーケツしたじゃないですか?たしか体調不良?とかって。多分ですけど、その前日のディナーで大菅さんにバッチバチいかれたやつ。原因はあれっすね。」

 キッチンの主・大菅さんは店舗一の古株で、ホールの神・冴木と対を成す存在だ。

 先週の日曜日、混みに混んだ戦場のようなディナー営業真っ最中に極度のテンパりからオーダーミスと提供ミスを繰り返しまくった高橋くんは、先生の言葉通り大菅さんから「バッチバチ」に怒鳴られた。営業後に声を掛けたものの、このバイトを始めてから僅か3週間で初修羅場を経験した17歳の彼のメンタルが言葉足らずな俺のフォローでは到底回復しないことも分かっていた。
 続けてシフトに入っていたはずの翌日に「発熱したので休ませてください、当日欠勤すいません。」と言った電話越しの高橋くんの声は、どんな雰囲気だったっけ。助けられも思い出せもしないまったく駄目な店長ですまん、と心底思う。申し訳なさと情けなさのダブルパンチだ。

「やっぱ立ち直れないかぁ。」
「まぁ近頃の若者はね、怒られ慣れてないですし。」

 キミもその一人でしょうよ、と言いたかったけれどきっと機転の効く賢い彼女はそもそも怒られない人なのだろう。

「そっか、でもしゃぁねえな。確かに大菅のおっちゃんもキツかったけど間違ってはないし、続けるも辞めるも高橋くんの意思だから無理強いできないし。この先どうするのかだけでも様子見て連絡するわ。」

 そう告げて話を締めようとしたら、先生のジトッとした眼差しに捕まった。

「え、なんすか。」
「んー、んんー。・・・ハハッ。」
「えぇっ感じ悪、人の顔見て笑うなよ。何?」
「怒んないでくださいね?前々から思ってたんですけど、笠原店長ってポジティブに言えばサッパリしてて楽だけど、ネガティブに言えばサッパリしすぎてて他人に全然興味なさそうだなぁって。もしや、バイトに飛ばれ慣れてます?」

 ほんじゃっ今日もひと頑張りするかー!と言い逃げしてゆく頼もしい背中に、喉の奥から声にならない乾いた音が漏れた。

 冴木さん、俺、バイトに飛ばれたのはこれが初めてだけど、付き合ってた彼女が飛んだことはあるよ。ちなみにflyじゃない方ね。

 そう言ったら、切れ味の鋭い大先生はいったい何と返してくれただろうか。



 ーーー梅雨時の昼下がり、細く窓を開けたリビングには濃い緑と珈琲の香りが満ちている。エンドロールのあまいバラードと身体の右側から伝わる環の体温が穏やかな眠気を誘う。“幸福” とキーボードで打ち込んで変換されたみたいな景色だ。

「アメリカの映画とかドラマはね、ちゃんと間に合わないんだよ。」

 環はそう言って、何故か悔しそうな顔をした。数年前にふたりで選んだ飴色のへたれたソファに座って観終えたのは、寸前のところで主人公の恋人に仕掛けられた時限爆弾が解除されるサスペンス系の大ヒット邦画だった。

「なんでハッピーエンドなのに不機嫌よ、」
「だってこんなのご都合主義だもん。赤と青が最後残って、ウワーーッとか汗だくで叫びながらどっちか切って、ラスト1〜2秒で絶対止まるでしょ。どうしていつも、ギリギリで間に合っちゃうんだろうね。」
 
 淡々と語る彼女の横顔に向かって、でもさすがにその終わり方にしないとなんか胸糞じゃない?と宥めてみれば、

「この世界に起こることって、大体胸糞でしょ。」

 と、迷いのない言葉の刃が振り下ろされた。
 驚いて何も返せない俺を無視するかのように、人生なんてさ、と環は続けた。

「間に合うことの方が少ないんだよ。かさぶたは剥がした後で後悔する、電車の扉はエスカレーターを降りたところで閉まる、病気は見つかってから怖くなる、誰かが傷つけられた後で対策が練られる。」

 スパッ、スパッ、刃は空気を斬り刻む。
 澱みなく流れるそれはベランダを打ち付ける雨足のように強まる一方だ。そろそろ窓を閉めなきゃな、と頭の片隅で思うものの身体は硬直したまま動かない。

「疲れてそうだからちょっと休めば?って言われる頃には、ずうっと前からもう溺れてるんだよ。」

 ねえ、笠原くん。ベーってしてみて?

 どこか遠くを見つめていた環が、ベーってほら、舌、と言いながら俺の方を向いた。怒りや憤りではなく、哀しさを湛えた瞳が突如突き刺さって、不思議なことにすこし痛いと思った。べー?と間抜けな声を出して舌を見せる。

「ふふ、紅いね。・・・あかい。人間の中身はね、ベーって出した紅い舌くらいしか見えないの。むしろ舌すらも意思を持って出さないと見えないんだよね。息継ぎが出来ずに苦しい肺も、月に一回泡立て器で掻き混ぜられてるみたいな子宮も、笠原くんのこと考えるだけでちぎれそうな心臓も、全部ぜんぶ、目に見えないの。」


 すっかり珈琲が冷めてしまったからか、右側から感じるのは眠気ではなく狂気だからか。たった15分前と家具も家電も何もかも同じこの部屋のどこを見渡しても、もはや “幸福” などという景色は見当たりそうもない。キーボードの変換機能は突然壊れてしまったみたいだった。

「だからね、笠原くんの彼女でいるの、ちょっとお休みしたいの。」

 どういう意味?とか何で?とか別れるってこと?とか、聞きたいことは沢山あるはずなのに何故だかひとつも言葉が出てこない。

「・・・舌、しまいなよ?」

 最後に環はそうわらって、ソファから立ち上がった。まるで、長年連れ添った飼い犬に向けて愛おしげに言い聞かせるような言い方だった。そうか、出したままの舌が渇いているから何も言えなかったのか。水分を摂れば言葉も出るだろうと思って珈琲を飲んだけれど、苦いだけのどろりとしたその液体は渇きを加速させるだけで俺の口はますます堅く閉じていった。

 “人生なんてさ、間に合うことの方が少ないんだよ。”

 赤と青で迷うことすら出来なかった俺は、どうすれば良かったんだろう。それからずっと今も環の休みは続いたまま、もうすぐ2年が経とうとしている。



 
 
 彼女でいることを休みたい。そんなことを突然告げられて期限を尋ねるほどの余裕もなく、けれど自ら迎えに行けるほどの強さもなく、忠犬ハチ公のごとくじっと待ち続けていたらいつしか環とは連絡が取れなくなっていた。当時、それって自然消滅?と友人達から訊かれたけど、そうじゃない。消滅すらさせてもらえなかった。じゃぁ失恋したの?と言われたところで、別に失恋もしてはいない。だってフラれてないんだし。ただ、喪失はした。残されたのは、俺の人生から環を喪失したという事実だけだった。


 慎ちゃん補充終わったら3番チェックおねがぁい、あっ山田氏〜パントリー片してくれる?さんきゅー、高校生軍団はそろそろ上がるよー!

 ノーゲストになった後、目と手と口を高速で同時に動かす冴木先生に一本だけ吸わせてくださいと懇願したタバコ休憩中(いつものことなのでロクに顔も見ずどうぞ、と喫煙所の方向を手差しされた)僅かな願いを込めて点けたスマホに高橋くんからの通知はなかった。そんなに上手くいかねぇわな、と苦笑して念のためトーク画面を開いてみると、吹き出しの横に並んだ小さな既読の二文字。

「・・・マジか、」

 吐き出した煙と共に漏れた呟きが換気口に吸い込まれてゆく。これは間違ってLINEを見てしまったのか、それとも彼の意思でつけられた既読なのか。店長として迷わずメッセージを送ればいいものを、本意が分からなくて年甲斐もなく狼狽える自分が本当に情けない。


 人間の中身は目に見えない。
 人生は間に合うことの方が少ない。


 あの時振り下ろされた刃の傷跡は、俺が環を救出できなかった証だ。赤と青で迷えなかったのではない、きっとそれまでに何度も何度も間違った方を切ってしまっていたのだろう。とっくに爆発していたと気づいたのは、環を失って随分と時間が経った後だったのだ。

 今、俺の手にはまだ高橋くんを救出する為のペンチが握られているのか?


 
 コン、コン、コンッ。

 強めにノックされたガラス窓に目をやれば、腕時計を人差し指で激しくタップする先生の、いや大明神の唇が『はーやーくー!』と動いていた。慌てて灰皿に火を押し付けて立ち上がり、店内のやたらと多い間接照明を落として回る後ろ姿を追いかける。

「今晩の手応えはどんなもんすか。」
「じゅー・・・はち、いや、きゅう、は堅い。」

 相変わらず鋭い売上考察を拝聴しながら既読がついたことを伝えたかったけれど、それより先にレジを締めろと怒られることが目に見えていたので口を噤んだ。すべての照明を落として、最後に自動玄関ドアの電源を切る。

「っしゃ、おしまーい。」

 冴木先生が腰に巻いたサロンを緩めた。任務完了、の合図だ。俺はあの檻の中に戻って、まずはスリープ状態のPCを目覚めさせなければならなかった。


・・・

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』6月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「やすむ」。時間のながれに身を預けて心がやすめられるような、そんな6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。


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