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noteドラマ 「りんごとオレンジ」⑥



chapter.6 「 りんごとオレンジ 」



何度髪を持って梳いてみても、すぐに揺れ落ちてしまう。もう決して元には戻せない。
あんなにも、楽しみにしてくれていたのに。


六花と出掛けた日から、一週間が経った。
それは同時に、髪を切った日から、ということにもなる。
今のところ毎朝あたしは情けないことに、目覚める前に髪がなくなっていることにまず驚いて、それで目を覚ましてしまっていた。鏡を見るたびに嫌気が差して、つい目を逸らしてしまう。

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仕事が早上がりだったこの日、ついに六花にリモートで話を聞いてもらうことにした。自分ではもう、後悔と苛立ちが渦巻くこの感情をどうすることも出来そうになかった。


「……という訳でね、始まりはほんの些細なことだったのよ。景は犬が好きで犬を飼いたい、あたしは飼いたくない。ただそれだけの食い違い。それなのに、あたしが通信切っちゃって、意地はってその後も無視しちゃって、挙句の果てには髪の毛まで切っちゃって。はぁぁぁ、もうあたしほんとに最低。終わってるほんと。」
これまでの出来事を言いながら、自分自身のあまりの駄目っぷりにまたもやへこんでしまう。

「まぁまぁ。そこまで分かってるならもう自分のこと責めるのはやめにして、これからどうするか考えようよ。ね?」
「どうするか、かぁ。どうもこうもさ、多分あたしたちの価値観って、ずーっとこのままどこまでいっても平行線なのよね。」
「飼う派か飼わない派か、ってことだよね。うーんでも、それはそうじゃない?だって、どっちかが派閥変更しない限りは、正直言ってまるっきり正反対の意見だもん。」
「六花……人妻になるとあんた強いわね……。」
「あ、ストレート過ぎた?ごめんね。だけど、恭ちゃんと私もそうだったじゃない?阪神ファンと巨人ファン。ズバリ犬猿の仲。」
「それはそうなんだけど……でもさ、六花達の場合はその根底に野球好き、っていう最大の共通項があるでしょ。この問題がね、犬派か猫派ならまだいいのよ、根底に動物好きっていう共通項があるからね。でもあたし達の場合は、その根底すら真逆だから……どうしたもんか……。」

一番の悩みの種はここだと分かっていた。愛するものの価値観の、根本が違うこと。それを努力だけでは、到底埋められなさそうだということ。


「なるほどねぇ。でも妙ちゃんってさ、極端に動物が嫌いっていうことではないんだよね?ちなみに、どうして飼いたくない派なの?」
「うーん、全然嫌いじゃないのよ。テレビとか写真とかで見る分には、可愛いなぁとか思うもん。だけど、小さい頃からずっとチビ達の世話してきてて、金銭的にもだけどウチ動物飼う余裕とかなくってさ。単純に動物と触れ合う機会が今までの人生で全く無かったから、自分が動物と暮らすっていう概念があたしの中で本当に無いんだと思う。それに、顔とか舐められたりするのが生理的にぶっちゃけ苦手で……。」
「ふふっ、それはちょっと分かるかも。まぁ、要するに育ってきた環境の違いってやつだよね。景くんはずっと犬達に囲まれて、妙ちゃんはそれとは全く無縁の世界で。だからこういうのって、どっちがいいとか悪いとかじゃないもんね。」
「ほんとにそうなの。だから景の気持ちもすごく理解できるのよ、この人は本当に心から犬好きなんだろうなぁって。それを頭で理解はしてても、じゃぁあたしも同じように思えるかっていうと難しくて……。景にとってのそんなに大事な価値観も分かってあげられないのって、それってこの先どうなんだろう?って思っちゃったのよね。」
「この先どうなんだろう、って……今後のこと?」
「うん。景はきっと、生活の中に当たり前のように犬を飼って暮らすことが一番幸せなんじゃないかなぁって思うの。だけどあたしは今のところ、それを叶えてあげられそうにないから……」

景が犬と一緒に笑って暮らしている姿を想像して、なんだか哀しくなってしまう。その隣にいるのは、絶対にあたしじゃない。


「えっ、だからってそれで景くんと別れるの?」
「それは……嫌なんだけど……」
「嫌なんだ、ふふふ。妙ちゃん素直で可愛い。」
「……うるっさいなぁ。だって、それ以外に別れる理由なんて特にないし、せっかくここまで付き合ってきたのに……」
「妙ちゃんは別れる理由がないから、景くんと付き合ってるの?ほんとに?」
「それは!…………違う、けど。ちゃんと、好きだし。できればこれからも、一緒にいたいし。」
「じゃぁさ、そう景くんに伝えてみれば?」
「六花っあんたそんな簡単に!」
「なんでよ、簡単なことだよ。妙ちゃんはねぇ、昔から頭良いくせに頭でっかちなんだよぉ。いろいろ一人で考えすぎ!いつもそうやって溜め込んで、最後にどかーんって爆発させちゃうんだから。でも、とか、だけど、とか、いろーんなもの取っ払って残ったものが、一番シンプルで一番大事な妙ちゃんの本心だよ。」
……ね?と微笑む六花の顔を見て、あたしはいてもたってもいられなくなってきてしまった。この子はいつも、あたしの背中を押すタイミングが本当に上手いのだ。

「……六花、あたし、」
「はい、気をつけていってらっしゃい。急ぎすぎてコケないようにね!」
お互いの考えていることがいちいち言葉にしなくても伝わるのは、とてもとても心強いことだ。

あたしは六花の通信を切ってからすぐに家を出ようとしたのだけれど、その前に部屋をめちゃくちゃにしながら慌てて着替えをした。苦い思いが詰まった、あのワンピースを着ていこうと思った。景に会うには一番ふさわしい格好な気がした。

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電車を待つことさえもどかしくて、タクシーに乗って景の家へと向かった。最寄りのコンビニでタクシーを降りて、ビールを買い込んだ。気がつけば小走りになっていて、景のマンションに着いたときには息が切れそうだった。

ーーすると、マンションの下で何故か景が座って待っていた。肩で息をしているあたしの姿を見ると景は静かに立ち上がって
「とりあえず、部屋行こっか。」
と、小さく言ってエントランスに入っていった。

エレベーターの中は、無言だった。ビールから出る水滴が袋を伝って床に落ちる音が、響き渡りそうだった。


久しぶりに入る、景の部屋。扉を開けただけで懐かしい景の匂いがして、それだけで何だかもう泣いてしまいそうだった。黙ってソファに座る景を見て、あたしはぺたっと床に座り込んだ。

「……あたしが来ること、なんで?」
「……六花さんが、連絡くれて。多分妙ちゃん何も言わずに景くんのところ向かってると思うから、後はよろしくねって。」
「六花……そっか、ごめん突然来ちゃって。」
「いいよ、俺もちょうど仕事終わったところだったから。」
「……ありがとう、おつかれさま。………景、あのね、今日来たのはね、あたし……」
「分かってるよ、妙さんが思ってること。犬のこと、俺が悪かった。妙さんの意見とか聞く前に、俺の言いたいことばっかり話しちゃって。妙さん言いづらかったよね。ごめん。」
「違うよ!違う、景が悪いんじゃない。あたしが悪いの。もっと早くちゃんと景に話せば良かったの。でも、景が犬好きだって知ってたから、これを言うと景は幻滅しちゃうかなとか、嫌われちゃうかなとか、考えちゃって……なかなか言い出せなかったの。ごめんなさい。連絡も、途中で切ったり無視しちゃったり……。子供みたいなことして、本当にごめんなさい。」
「うん。まぁ無視されたのはぶっちゃけちょっとへこんだ。ただでさえコロナで会えないのに、連絡も無視されたら、もう俺ほんとどうしようもなかったよ。」

目の前で景がハの字眉毛にして、困ったように笑っている。……だめだ、泣いてしまう。泣く前に、まだあたしには謝らなきゃいけないことがある。


「……それとねっ、もう当たり前に気づいてると思うんだけど。……髪、切っちゃったの。景とのことがあって気分転換とか思ったんだけど、全然転換できなくて、むしろもっと落ち込んで。毎日鏡見るの嫌で。景への当て付けみたいになっちゃって。せっかく約束してたのに、切るの楽しみにしてくれてたのに、ほんとにごめんね………っ」

少しの沈黙のあと、景はそうっと私の頭に手を伸ばして髪を梳いた。パサっと音がして、すぐに揺れ落ちた。


「………切っちゃったね、バッサリ。

くっそーーー。やっぱり妙さん、短いのも似合うなぁ。元が美人だもんなぁ。ロングも良かったけど、短いのもめちゃくちゃ可愛いなぁ。あーあ、なんだよー。こんなに似合ってたら、もう何も文句言えねえよー。惚れたもん負けだよーー!」

そう言いながら、景は何度も何度も髪を梳いてはいろんな角度からあたしを見て笑った。今度は困った笑顔ではなく、街で犬を見かけて笑うときの目尻が溶けそうないつもの笑顔だった。

その顔を見た途端、もう涙の我慢が表面張力から溢れ返ってしまって、あたしは子供みたいにわぁわぁと声を上げて泣き出してしまった。
景はびっくりしながら、妙さん何でそんなに泣いてんのーーとまた笑って、あたしの短い髪を泣き止むまでずっと優しく撫でてくれていた。

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あたしが落ち着きを取り戻した後、買ってきたビールはすっかりぬるくなってしまったからこっちにしよう、と言って景は冷蔵庫を見せてくれた。そこにはあたしも買ってきた、あたし達のお気に入りの銘柄のビールが沢山詰まっていた。

「自粛が明けたらすぐに、妙さんの家に行こうと思ったんだよ。そう思いながら仕事が忙しくて全然時間が取れなくて。でも毎日ビール買って帰っちゃってさ。気づいたらこんなに詰まってた。」
そう笑って、その中から取り出した冷たい2本のビールで仲直りの乾杯をした。

「景はさ、あたしが犬と暮らせないっていうのが変わらなくてもそれでもいいの……?」
そう言えば、さっき聞きそびれてしまったことを改めて聞いてみた。
「あー、まぁ犬が飼えるならそれは嬉しいけど、実家にいっぱいいるしね!俺の実家近いし、会いたくなったらいつでも会いに帰れるし。
でもさ、妙さんは一人しかいないじゃん!妙さんはここでしか会えないんだし、そう思ったら余裕で犬よりも妙さんと暮らす方が大事だよ。」

また気を抜くと涙が溢れてしまいそうで、慌ててビールを流し込んだ。
「でも、それって景にばっかり我慢させることにならないの?」
「え、ならないよ!だって家には妙さんがいるし、実家には犬がいるし。俺の方が何なら一石二鳥じゃない?……ん?これ使い方合ってる?」
「合ってるような、合ってないような……。あたしね、犬が嫌いな訳じゃないんだよ。だけど、」
「知ってるよ。動物と暮らしたことないし、ちょっと舐められるのとか苦手なんだよね。」
「え……なんでそれ……」
「六花さんがさっき連絡くれた後、『妙ちゃんって我慢強い割に一回爆発しちゃうと子供みたいに泣いちゃって、思ってること半分も言えないと思うから』って言って妙さんと話してた内容こっそり録音したやつ送ってくれたの。あ、髪切ったのはここに来るまで知らなかったからそれはガチでびびったけど。」
「六花……あたし全然知らなかった。あの子ほんといつの間に……」
「六花さん言ってたよ。この間妙さんにめちゃくちゃ助けてもらったから、恩返しなのって。いい友達だね。」
「……うん、助けられたのはあたしの方。今度お礼言わなきゃ。あのね、景。その、音声で聞いてるかも知れないけど、別れる理由がないからとかじゃないからね。あたし、ほんとに景のこと、ちゃんとその、好きだから……」
「伝わってるよ、妙さん。俺も妙さんのことめちゃくちゃ好きだよ!まぁずっと言ってるから知ってると思うけど!

だからさ、やっぱり一緒に住もうよ。俺、妙さんともっと一緒にいたい。笑って、たまに喧嘩して、ビールで仲直りの乾杯して。で、犬と遊びたくなったら俺の実家にふたりで行って。それで俺は十分すぎるぐらい幸せだよ?それじゃだめ?」

そんなことを目の前の子犬がハの字眉毛で聞いてくるから、あたしは胸がいっぱいすぎて頷くことしかできなかった。これだけ母性本能がくすぐられるのだから、もしかしたらあたしが本物の子犬にクラッとくる日も近いのかも知れない、なんてちょっとだけ思ったりした。

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それから少し経って、あたしと景は一緒に暮らすことになった。家を探して、引っ越しをして、バタバタで喧嘩もしたけれど、何だかその全部が景といると楽しくて仕方なかった。

六花にはあの後、ありがとうをいっぱいいっぱい伝えた。言葉にしなくても伝わる気持ちもあるけど、言葉にして全力で伝えたい気持ちだった。



ーーー今夜の晩ご飯は、アジフライだ。

「……えー!?景ってアジフライはソース派なの?信じらんない!」
「俺の方が信じられないよ。醤油って何?アジフライには絶対ソースでしょ!」
「はぁぁー、あたし達ってほんっとにこういうの合わないわよね。六花と吉井さんなんて、アジフライにポン酢かけることで気が合って結婚するんだからね!アジフライ婚よ?」
「ポン酢はマジで少数派だね。でも、アジフライ婚かぁ。なんかいいなぁーそれ!」
「どこがいいのよ。めちゃくちゃダサいでしょ。あたし達こんなにも価値観真逆で、ほんとにこれから大丈夫なの?」
なんだか心配になって、つい溢してしまう。

「うーーん、まぁ分からないけど、それでも一緒にいながらその度に悩めばいいんじゃない!

あ、そうだ。妙さん知ってる?日本ではさ、こういう交わらない意見とかのことを『水と油』っていうじゃん?海外ではさ『りんごとオレンジ』って言ったりするんだって。どっちも比べられないくらい素敵だよね、ってことらしいよ。だからさ、アジフライの醤油もソースも、りんごとオレンジだよね!」

なんだそれ、と思いながら美味しそうにソースをつけてアジフライを食べる景を見て、思わず笑ってしまう。
そうだ、あたしと景は価値観こそ真逆だけれどそれがいいのかも知れない。

慎重派なあたしと、楽観的な景。
サバサバしてよく怒るあたしと、のんびりしていつも穏やかな景。

そうやってお互いの弱い部分や足りない部分を、ふたりでそれぞれ補っていけばいいのだ。今ある価値観も、きっとこれから変わってゆく。その度にまたふたりが一番楽しくいられる場所を、お互いが絶えず努力して共に創りあげていけばいい。


「妙さんの髪型もさー、りんごとオレンジなんだよねぇ。今のショートも可愛いし、やっぱりロングも色っぽいし。あ、でも次は絶対絶っ対、俺が切るからね!!もう俺以外の人に髪切らせちゃだめだからね!!」

モゴモゴしながら喋る景を見て、どうしようもなく愛おしさが込み上げてくる。

次の休みには……次の休みには、ふたりで景の実家へ遊びに行こう。犬達と遊んで、舐められるのはやっぱり嫌だけど、一日中景と犬達と一緒に過ごしてみよう。あのお気に入りのワンピースを着て、楽しい思い出をいっぱい作ろう。まだまだ、夏はこれから始まったばかりだ。


「妙さんもう一本ビール飲もー!」
景が嬉しそうに笑っている。冷蔵庫の中には、あたし達のお気に入りの銘柄のビールが仲良く並んで冷えている。価値観が違うことも多いけれど、同じ価値観だってこうしてたくさんあるのだ。

違っても同じでも、どちらも素晴らしい。あたし達を繋ぐ愛しいそれは、まさに「りんごとオレンジ」なのだった。



                    完

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