見出し画像

掌編小説 | 春隣、或る日


・3月4日(木) 曇り
 今日の歌:人魚/NOKKO

取手のついた口の広いガラス瓶にとぷとぷと水を注いで花を生ける時間は、私をいかにも幸福な主婦たらしめる。今日はミモザを買った。この世の光を一点に集めたように直向きな黄色がキッチンにあるだけで、優しく健やかな自分でいられる気がして。もしくは、そう在る為の願掛けがしたかったのかも知れない。


「イタリアでは男性から女性に感謝を込めて、この花を贈る風習があるんですよ。3月8日はミモザの日なんです。」

昼間、いつも愛想の良いフラワーショップの女性店員が手際良く花を束ねながら言った。へぇ、と私が打った何気ない相槌の後、こんなことも教えてくれた。

「でも、正式にはミモザっていう名前の植物はないんですよね。この子の本名、アカシアなので。」

オジギソウとよく似た葉を持つ新種のアカシアが持ち込まれた際に、オジギソウの学名であるミモザから名を取って “ミモザアカシア” という通称が付いたことからいつしか黄色の花を付けるアカシアは総じてミモザと呼ばれるようになったそうだ。ニックネームが本名を上回っちゃった的な、と彼女は軽やかに笑い、私は胸の奥を握り潰されながら、へぇ、と返した。

ーーーママ。たった2文字の通称が、数年前から私個人を何よりも強く物語っている。そう呼ばれるまでに何十年も長く存在していた本名など、今では誰ひとり知らないかのような濃さで人生が塗り替えられてゆくように。ママ、ねぇママ、ママ〜?、ちょっとママ!一日で幾度となく耳にする “自分” を呼ぶ声。その単語が指している人物は、本当に私で合っているのだろうか。今朝もそんなことをぼうっと考えたところで、フリフリの靴下を履かせろと喚く娘はまったく静かにならないし、そもそも洗濯したばかりのそれは乾いてくれやしなかった。
だから、幼稚園から帰ってきた娘にドライヤーで懸命に乾かしたものを誇らしげに見せたところで、一体何のことですか?と言わんばかりのきょとんとした顔をされるであろうことも “ママ” なら分かっていたはずなのに。


「ママ〜!きょうのおやつなぁに〜!」

洗面所から派手な水音に混じって元気な声が聴こえてくる。幼く無垢なあの子に、私は何を期待してしまったのだろう。贖罪のように彼女の好物であるチョコチップクッキーを小皿に移してやりながら、視界の隅でミモザが揺れた。細く開けた出窓から入り込む風に震えるそれは、まるで小さくこごえているみたい。気がつくと、懐かしい歌がくちびるからこぼれ落ちていた。そうして紛らわせる以外に、涙を堪える術は見つからなかった。



・3月12日(金) 晴れ
 今日の歌:さくら(独唱)/森山直太朗

今日みたいに桜が薫る気配がした朝は、どうしたって中学の卒業式を思い出させる。3年前より身体に馴染んだ制服、悩んだ末に結局いつもと同じでふたつに結った髪。スカートのポケットに忍ばせたハンカチが、じわりと滲む切なさと寂しさを吸い込んだ別れの刻。

「ねぇ、中学校の卒業式でなにか歌った?」

娘を寝かしつけてから隣でスマホゲームに勤しむ夫にそう尋ねたのは、そのまま一日中 “あの日の唄” が頭から離れなかったからだ。うーーん、どうだっけ、と生返事だけしながら1ミリも視線の変わらない横顔。気の抜けた機械音が沈黙の隙間を通り過ぎてゆく。
熱いほうじ茶で溜息を飲み込んで、想い出を辿るように私はすうっと瞼を閉じた。


それは、卒業式を目前に控えた頃。今もなお名曲と語り継がれる卒業ソングがリリースと同時に大ヒットした。その美しく切ない歌詞とメロディは、当事者である私や友人たちの心にも漏れなくドンピシャで響くことになる。

「めちゃくちゃいい曲だよね」
「卒業生の歌、ほんとはこれが良かったのに」

冷え切った体育館で事前に定められた合唱曲を練習しながらも、口々にそう言い合っては悔しさを噛み締めた懐かしい日々のこと。
霞みゆく景色の中に歌えなかったあの日の唄を夢見て、私たちはいつしか大人になった。


「……あ、思い出した。しろいひかりのなーかにーってやつだわ。これ、何て曲だっけ。」

そんな呟きにパッと顔を上げると、眉根を寄せた険しい横顔が目に入った。指先は忙しないままだけれど、彼は同時に記憶も呼び起こしてくれたらしい。

「やまなみはもえてー、でしょ。一緒だ。私もそれだったよ。」

偶然にも重なったその曲の名前を伝えてから続きを歌ってみると、一拍置いて後を追う聴き慣れた低い声。何かがぐっと込み上げて、思わず寝間着のポケットに手を差し込みながらあるはずのないハンカチを探してしまった。気の抜けた機械音がソプラノとテノールの隙間を通り過ぎたひと時を、私はずっと忘れないだろう。どちらともない照れ笑いで締めくくられた旋律の余韻が、甘やかな夜にゆっくりと溶けた。



・3月23日(火) 小雨
 今日の歌:ばらの花/くるり

雨降りの日、いつものバス。
今日もまた “カイ” には会えなかった。

彼と出会ったのは、しとしと降り続く嫌な雨の午後。左手には千切れそうなスーパーの袋と大小の傘2本、右手には滑る度に何度も握り直さねばならない娘の丸っこい手を引いてようやくバスに乗りこんだ私は、既に疲労困憊だった。もわっとした特有の空気が息苦しさを増幅させて、余計に気が滅入る。

「ママぁ、びちょびちょやだねぇ。」

私に似て神経質の娘が、頻りに濡れた手を拭きたがっている。分かるわ、よぉく分かる。今すぐにでもつめたいその手を温めてやりたい気持ちでいっぱいだったけれど、混み入った揺れる車内で鞄の中からタオルを取り出すには私の腕があと一本足りなかった。

「もうちょっとだけ待てる?ママね、今お手手離せないのよ。」

びちょびちょやだの!と不快さを露わにする潤んだ瞳に、ごめんねと慰めることしかできない。濡れた手ひとつ拭えない今、過敏で繊細なこの子の未来。どちらにも無力な自分が哀しくなってしまう。

「こっちに手、出せるかな?」

やわらかな声が背後から飛んできたのは、赤信号でバスが停まった時だった。首だけを動かして振り返ると、大学生くらいの若い男の子がタオルを差し出してくれている。あ、ちゃんと綺麗なやつなんで、とはにかむ顔を見て、張り詰めた心が一気にほぐれた。雨が連れてきた神様みたいに思えた。

彼に会ったのは結局その一度きりだ。雨が降ってバスに乗るたびに、ちょっとでも助けられたなら良かったっす、と笑って次の停留所で颯爽と降りていった背中を思い出す。あの人懐っこい笑顔は私が大好きな青春ドラマの主人公に少し似ていた気がして、それからは勝手に心の中で役名の “カイ” と呼んでいた。やましい気持ちは一切ないのだけれど、なんとなく夫には黙っていようと思った。主婦の密かなときめきは、日常を彩るフィクションのようなものなのだ。


「きんいろの、しゅわしゅわ!」

お風呂上がりに出したジンジャーエールを見て、うれしそうに娘が叫ぶ。たまにしか味わえない特別なその飲み物は、大人の味がするらしい。惜しむようにちびちびと嘗める愛おしい姿を眺めていると、いつも無意識に口遊んでしまう歌がある。『ママのしゅわしゅわのおうた』と呼ばれているそれは、ドラマの中で “カイ” が聴いていた彼の好きな曲だということも、私だけが知るちいさな秘密だ。




◎メモ(4人分)
卵4つ、牛乳600ml、砂糖大さじ4くらい、バニラエッセンス数滴。よく混ぜてから濾して、耐熱容器にラップをふんわり。ひとつずつレンジで様子を見ながら5〜6分。扉を開けずにそのまま少し蒸らす。


「……にがいの、パパとママにあげる。」

醍醐味のプッチンをしないまま、黄色い部分だけをきれいに掬った透明のカップがずいっと寄越される。あまいのだけがいいの。力強く主張するプリンセスは誰に似たのかと、夫と目を見合わせて苦笑いが漏れた。混じり気のない眼差しは、ガラス玉のようにきらきらゆらゆら。このまま吸い込まれてしまいそうだ。

にがいのはいや、あまいのがいい。

そうだよな、と思う。好きなものだけ食べたい。好きなひとにだけ囲まれていたい。あなたとおんなじ。ママもおそろいの気持ちだよ。

でもね、でも。人生はいつも好きだけを選べない。この先大人になっても “苦い” や “嫌い” は消えなくて、むしろ増えてしまうこともあって。既にその酷さを知った私達がしてあげられるのは、せいぜい残した部分を代わりに食べることくらい。せめて我が家だけはカラメルのないプリンを作ることくらい。

世界がやさしい今だけは、まだ。


「………わんわんっ、!」

駆け出す娘のポニーテールがふわりと揺れて、鼻先をくすぐる風。

公園まではあと少し、口笛を吹きながら。


        ドキドキ/JUDY AND MARY


・・・


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』3月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「うたう」。登場人物が歌にのせた思いが文章からも響いて伝わってくるような、6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。




価値を感じてくださったら大変嬉しいです。お気持ちを糧に、たいせつに使わせていただきます。