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「つらさ」に寄り添うってどういうことだろう

すごくお久しぶりです m(_ _)m

こども発達・支援相談室「ひだまり+(ぷらす)」の前田です。

ついこの前、
2023年の最後の記事を書いて、
「2024年こそは、もっと頻繁に投稿するぞ!」と決意したはずなんですが…
あっという間に、
3月も1/3が過ぎて、
2023年度が終わろうとしています。
早いですね…(⌒-⌒; )

花粉の時期は、早く過ぎ去ってほしいものですが…(⌒-⌒; )


【おしらせ】
 ここから先、自然災害に関する記述があります。
 今の、心身の状態によっては、つらさが増すかもしれません。

 少しでも、読み進めるのにためらいがあった場合は、
 一度、ここで、画面を閉じる方が良いかもしれません。
 
 その場合、そういう判断をされたご自分を、ぜひ、褒めてあげて、
 可能なら、信頼できる人と、そのことについて話してみるのも、
 あなたの助けになるかもしれません。

 すぐに、それができなくても、信頼できる人に、今度話そう、
 と、ラインを送ったり、定期的に相談をされている先があれば、
 予約の電話を入れることも、助けになるかもしれません。

 温かい飲み物を飲んだり、もふもふのぬいぐるみをさわるのも、
 同様に、助けになるかもしれません。

 読み進めて、少し、しんどくなった方も、 
 同様のことが、助けになるかもしれません。

 少しでも、あなたの穏やかさが、保たれることと、
 そのために、さまざまな助けが、あなたの近くにあることを、
 心から願います。

【おしらせはここまでです】
 以下、災害等に関する記述があります m(_ _)m
 







さて、
そんな今日は、3月11日です。

3月11日に感じる無力感


自分にとっては、やはり、
3月11日と言えば、
2011年の3月11日が思い起こされます。

ニュースなどでもさかんに報道されるので、
どうしても東日本大震災のときのことを思い出します。

たくさんの方が、今でもつらい思いをしている。
その、たくさんのつらさに対して、
自分にできることがあまりにも少なく、
無力感、絶望感を感じます。

今朝、当時の記憶が蘇ってきました。
13年前のその日、自分はある幼稚園さんでの訪問支援をしていました。
教室での活動を終えて、仲間と共に職員室に戻り、
そこのテレビで、災害の一報を知りました。
そこでみた映像と、立ちすくんだ自分のことをまだ覚えています。

そのとき、何ができたか。
その後に自分が直接被災した時に何ができたか。
そこから今に至るまで、何ができたか、
何ができるようになったのか。
そういうことを思うと、無力感、絶望感が募ります。

ただ、
震災を含めて、つらい思いをしている方すべてに、
何か十分なことをすることはできないけれど、
そのつらさに思いを馳せることは、
意味がないことではない、と思います。
というか、思いたい。

それが、直接的な解決にならないことは
十分自覚しながらも、

いろいろなつらさがあること
いろいろなつらさがあっていいこと
いろいろな回復(ルートやペース)があること
いろいろな回復があっていいこと

そういうことを、あらためて自分で感じて、
それを、少しでも、発信することに、
少しは、意味がある。そう思おうと、今、しています。


つらさの種類


つらさの中に、
いろんな種類があるけれど、
そのなかで、個人的に、これはかなり苦しいな、、、と思っているのは、

「つらさを感じてはいけない」と言われたり、
自分でもそう思ってしまう、という、つらさ、です。


つらさって、個人的、主観的なものです。

なので、他の人(それが「社会」や「常識」のこともある)から、
・「つらくないはず」(そんなことぐらいで? もっとつらい人もいる!)
   と、つらさの「判定」をされてしまったり、

・「もう大丈夫でしょ?」
 (まだ言ってるの? ”みんな”元気になったよ?)
   と、回復のペースやルートを「指定」されてしまったりすると、
 自分自身を否定されたようで、
 ものすごくつらい、、、と、実体験からも思います。

これは、そもそものつらさ、ではなくて、2次的なつらさ。

だから、
そもそものつらさが、なかなか取れにくいとしても、
せめて、2次的な(ある意味、余計な)つらさだけでも、
少なくなれば、
そもそものつらさを癒すための心のエネルギーの余裕が、ちょっとずつ
でてくるのかなあ、と思います。

そのためには、
自分のつらさは、誰かが、重い軽いを決めるものじゃない
自分のつらさからの回復は、誰かが時期や方法を決めるものじゃない。

いわゆる専門職であっても、
「一般的にはこういうやり方がありますよ」と提案はできますが、
「あなたはこうです」と断言はできないはず。

だから、今、自分がつらく思っていることを、
自分で否定しなくていい。
どんな内容だろうが、
どれほど時間が経っていようが、
つらかったら、つらく思っていいし、
助けを求めていい。

そんなことを、
自分自身にも、いいたいし、
こういう場ですが、少し、皆さんにもシェアしたいと
思った、今日でした。



もう少し続きます。

2次的なつらさへの寄り添い

昨日、研修を受けてきました。
「熊本小児保健研究会」という団体さんが主催の、
不登校に関する研修です。

医療関係、教育関係、福祉関係など、
さまざまな分野で活動されている方々のお話を聴かせていただきました。

その研修後に、あるきながら、ふと、思ったのは、
やっぱり、2次的なつらさのことでした。

学校にいけないのは、
きっと、なにかのつらさがそこにあるからでしょう。
それは、人によって、状況によってさまざまで、
すぐには減らすのが難しいものもあるでしょう。

ただ、2次的なつらさも確実にある。
それは、「学校にいけてない」こと、そのものによるつらさ。

学校にいけてないことを、責められたり、
悪いことだ、いけないことだと自分で責めたりしてしまう。

学校にいくか、いかないか、
学校にいかせるべきか、いかなくていいというべきか、
というのを、ちょっと、脇において、

学校にいけないのが悪い、ダメだ、という発想で、
2次的にうまれているつらさを、まず、認めてあげて、
そこを、周囲のあたたかさで、減らしてあげる。

(学校を休んで、家庭でほっとできている方もいますが、
 学校を休んでいるはずなのに、ずっと、
 「いくべきだったのに」「自分はダメだ」
 「明日こそはいかないと」と思い悩み続けている人も、
 たくさんいます)

そのことで、
少しずつでも、
そもそも、学校でなにがつらかったんだろう、と、
周囲の大人と共に、じっくり、さぐる心身の状態ができていくと、
いいのかなあ、と。そんなことを、思いました。

不登校・学校適応ということについては、
とても大きい、深い、広いテーマだと思っているので、
また、ちょこちょこ、書いていきたいと思います。


よかったら、
コメントお待ちしています。

全てに十分なお返しができないかもしれませんが、
必ず読みますし、
今後のひだまり+の活動の中で、何らかの形で、
お返ししていこうと思います 😊

あと、あまり、知られていませんが、
音声配信(ポッドキャスト)もやっています。
ご興味ありましたら、覗いてみてください (⌒▽⌒)


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