観測とは何か?1

存在のイメージ

ここにに白い紙とその中に丸が書いてあるとする この丸認識されるのはその周りの余白があるからだ だがそれだけでは足らない それを上から眺める視線が必要だ 2次元の紙面の中ではその丸はたんに線にしかみえない それですべてだろうか?もう一つ大事な要素がいる それは時間の流れである 時間がなくては存在そのものがありえないからである なにを当たり前のことを話しているのか?それではこれらの要素で自己完結する理論はないのであろうか

とりあえず次のようなイメージを考えてみよう

下図のグラフを自己完結にするにはどうしたらいいだろう?

  

自己完結とはこの二つの丸を一つの存在にしてしまうことである{(オッカムの法則(できるだけ単純化する)} 

シンプルな立体ですとこんなのがそうですね 

  

ドーナツ型かな これなら外の円と中の円は一つで完結しています この底の小さい穴が丸ですからこれが存在物に当たります そして周りの余白がぐるりとドーナツ型に覆いかぶさって上から目線でその丸を認識しているイメージです


つまり余白とは認識側にあるということです 余白とは自分自身だということです ただ禅問答とは思わないでください 一つのイメージだということです

色即是空 空即是色(こんな言葉を想いだしますな)

ところで

 時間次元はどこにある 私はこれだけで時間次元も説明できると考えています それには少々物理量の解釈が変わります。まずこの世界つまり私は実在しているのか?少々難しい話から入ります。私は過去にはいない、未来にも行けない、現在いやもっと狭く今の一瞬にしかいない。ですよね。そこの一瞬から抜け出せない!今”今にしかいない!そのリアリティがわかりますか?こう考えて何より優先して今の瞬間を第一優先に考えました。そのリアリティは科学信仰の客観性より大事なものです。まあこのあたりはしばらくご辛抱して読んでください。この一瞬が重なったのが時間であります。一瞬とその感じる感覚は当事者にとって一瞬で時間の経過はありません。まてまてそれは科学的には時間が経過しているぞ!すぐ反論がでそうですが、これは私たちの意識の範囲です。マイクロ、ナノ、の世界ではありません。私にとっては時間は一瞬です。しつこく一瞬ばかりですいません。我々の実在はこの一瞬にしかありません。だって一歩前の一瞬は今はもう過去だ。思い出の世界だ.手にとれない!あらら消えた。これが意識である。まあこの意識は後程詳しく解説しますがこの発想がこのお話の土台になっています。とりあえず先に進みます。それゆえまず時間の概念から入ります

時間とは何か?から始めます

時間とは

  時間と方位の関数はグラフでもよくでてくるが 皆さん勘違いしやすいことがある それは現実には方位は行き来できるが時間はできないということである グラフでかけばそれは紙面上の客観性でかけるから勘違いするのであります 過去や未来へいけない 常にその時間上に観測者はいるのであって客観的に時間は見えないのです これは大事な事で解りやすくイメージすれは電車の中から線路をみているようなものです ですから時間方向は時間が重なって見えるのが正解で線路を

そとから眺めているようにイメージすると勘違い起こすのです というのが現代物理学の客観性の壁なのです 時間は積み重なってみえるものにイメージするのが正解なのです ですからこの概念で時間を再構築しなくてはいけません この考えでいきますと時間量という観測量ともいうべき物理量が必要となるのです 時間を重ねて考えなくてはならないからです 時間が重なっているとはどうういう事なのでしょう

 それは時間と空間の発祥の極小値 プランク時間とプランク長の不確定原理までとばなくてはなりません。

それでは一般にいう時間とは何か それは時間量の勾配のことで 

この勾配は一瞬の場の拡がりと時間量の増大との関係でつまり光の速度のことです 今論においては今にしか世界はありません 過去や未来はありません

過去とは一瞬の不確定の拡大方向に内在され今とその過去が一瞬に内在して不確定の時間量の中にある方向私から見れば光の飛んで言った宇宙方向でありますが

あくまで私の今から見たらそのような方向に見えるというだけでありそれが私の見える宇宙なのです。そこで提案です。この一瞬が続きある大きな一瞬になるとは考えられないだろうか?我々の一瞬は時間幅だと0,1~0,2ぐらいかな?これくらいだと二つのことの判断できないだろう。できたらそれは一瞬ではない。しかし小さな動物など、敏捷でその一瞬でもっと複数のこと行動おこす。例えば蚊などは手に食いつくときすばやくたたくがそれより早く逃げるあの速さはなんだ。きっと私の手の動きがスローモションに見えるのではないか、つまり時間がもう少しゆっくり進むように見える、いや見えるのではなく、実際ゆっくり進むのではないか?こういう例がいろいろある。つまり生物によって時間の進みが違うのでないだろうか?一瞬の重ね合わせが生物にとって違うのではないか?これは感覚の違いとなって現れる。そう考えられるのでは?分子生物学の世界を少し齧ると何万の分子がたんぱく質を作成してゆく工程はあーという間だ。一瞬が一時間いや一年かそんな複雑な工程だ。このあたりのお話は後述します。要するに時間の重ね合わせが感覚をつくるのでないか?


階層構造 ヒエラルキー

 

固体

器官 (心臓 肝臓 根 茎 花 など)

組織  (結合組織 上皮組織 神経組織 )

細胞  (血液 神経 筋肉 9

オルガネラ (ミトコンドリア 小胸体 ゴルジ体 )

分子  (たんぱく質 核酸 ATT アミノ酸)

一つの細胞 - 1秒で数万個の蛋白を作る

一つの細胞      - 80億のたんぱく必要

アミノ酸 20種類で組み合わせ たんぱく質作る

アミノ酸 O N C S H の5種類

生細胞は量子レベルの効果で働いている 陽子や電子を輸送するミトコンドリアは直径 1ミクロン(1センチの 1/10000)以下であり細胞膜の幅は 40ナノメートル(1センチの百万分の 4)しかない DNAの二重らせんの断面の大きさは 2ナノメートルであり大きなタンパク質のサブユニットにさえ20ナノメートル程度である 生命ははるかに微細な

電子のやりとりのレベルであり ある時期から突然生命が生まれたのではなく 本質的に量子のレベルまでかかわってくるということだ つまり生命とはこの宇宙の成り立ちから関わることであり たんぱく質ができてそれから生命が発生し意識の原始レベル

さて問題は一体どこまでレベル層が落とせるのだろう私は生命がたんぱく質がつくりだされそれから生命が生まれた発生したとは考えていません。絶対性のところでお話ししたようにこの時間の感覚こそが一番基本的な基準になると考えていますから、これは量子が生まれた時同時に生まれたと考えなくてはなりません そこに何かがあるということは何かがあるとそれを意識する自分がいます この裏表のような関係がなくては量子の存在は認識できませんしたがってこの裏表で一つです

   存在物(RC)⇔存在すると認識(C)

、存在物は場を作り存在すると認識は時間を作り出します これで一つです もちろん認識といっても、原始レベル認識ですからこれは粒子が創造された時その裏表の関係にある”粒子を認識する”は暗在的意識ともいう原子レベルの意識ですここはとても大切なところでありますが一番難しいところかもしれません

 もっとはるかに根源的な存在なのです

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