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映画『ゼロの未来』(英、2013年)雑感

今回は映画のレビューです。(ネタバレしたくない方は要注意です)

『ゼロの未来』(英、2013年)
監督:テリー・ギリアム
出演:クリストフ・ヴァルツ、メラニー・ティエリーほか

個人的な評価は…お得意の閉じた世界=ギリアムワールド全開のプチ名作!(ちょっとした言葉遊び)です。

まず、監督のテリー・ギリアム、『ブラジル』(英、1985年)、『フィッシャー・キング』(米、1991年)、『12モンキーズ』(米、1995年)の監督、そしてスペイン宗教裁判でも知られる?人物ですね。

スペイン宗教裁判は、「まさかの時の…」が大爆笑を誘う、英ハチャメチャコメディ集団・モンティーパイソンによるスケッチのひとつ。同メンバーだったギリアム監督が重要な役割で登場します。初出は1970年代。

行進曲「自由の鐘」を耳にするたびにギリアム監督を思い浮かべてしまう、という話はまた別の機会に。

ギリアム監督の映画には、どこかコミュニケーションに問題を抱え、閉じた世界に住む人物が決まって登場します。ルーツはやはりモンティ・パイソン。不幸・絶望を抱えた境遇は同時にブラックな笑いをもはらむという、ねじれた人生を生きる人たち。

『ゼロの未来』の主人公、コーエン・レスはその典型的な人物です。自分のことをなぜか「我々」と複数形で呼び、オープンな場は苦手。正体不明の電話が「生きる意味」を教えてくれると信じて待ち続けています。そんなコーエンは、会社に在宅作業を希望したため、ゼロの定理を証明するという奇妙な仕事を任されます。

後で分かるのですが、任された仕事の意味は不可能、そして無。

唯一、コーエンが閉じた世界から飛び出すチャンスを与えられるのは、ベインズリーという女性との出会いによってでした。少しずつ打ち解け、いい感じになっていくのですが、最終的にコーエンはチャンスを拒んでしまいます。

コンピューターによる管理社会(『ブラジル』を想起して)うんぬん…という解説を加えてらっしゃるレビュアーの方も散見されますが、それはちょっと違うと思っています。管理社会はあくまで現代的な閉じた世界を作り出すためのガジェットのひとつではないかと考えています。

そのあたりの描写は極めて秀逸。会社の場面、パーティーの場面、電脳ビーチの場面、いずれもが“閉じた感”に満ちています。コーエンの自宅(オンボロ教会)なんて、寒くなると雪が振り込んでくるほどスカスカなのに、やっぱり閉じている。

こうした世界観の作り方は、まさに絶品。ギリアム監督の面目躍如でしょう。

チャンスも希望も失い、深い絶望の中「Always look on the Bright Side of Life」を歌ってしまえるほどの元気はないコーエンさん、意味のないゼロの空間に身を投じ、徹底的に引きこもる事を選択します。

何だかすごく救いのないストーリーのようにも感じますが、そこはギリアム監督。「どうだ、ブラックだろ? ところであんたはどうだい?」と大きな口を開けて笑っている気がします。物語の舞台が近未来とはいえ、映し出されているのは“今”なんですね。

主人公コーエン・レスを演じるのはクリストフ・ヴァルツ。感情を抑えつつも心の動きが伝わってくるような好演が光ります。日本でいうと、あまり表情を変えずに深い演技ができる草なぎ剛さん、柄本佑さんあたりでしょうか。

ということで、痛快感&爽快感が感じられるようなシーンはまさに“ゼロ”。それでもギリアム好き、パイソン好きは押さえておいて損はない、そんなプチ名作です。機会があればぜひご覧になってみてください。

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