連載小説 「影跡」序章
序章
その日は静か過ぎる夜だった。
私は部屋の窓から外の景色を眺めていた。と言うより、ただ見ていた。ゆっくりと柔らかく奥ゆかしく誰にも悟られまいとするかのように雪が降っている。降っているという言葉が似つかわしくないほどに。暗い闇の隙間から白く光る小さな綿のようなかけらが落ちて来る。無論この後積もるつもりもないので、地面に着けば何事も無くただ消えゆく。まるで地下深くへと吸い込まれるかのように。そしてそれは、この世界のすべての音を包み込み、地面へと導く為だけに降っていた。私はただ、そんな雪を何をするでもなく、冷え切ったガラス窓に額をくっつけたままじっと見ていた。そんな夜の気配に呼応するかのように、時間もまた、ゆっくりと静かに過ぎていく。この世界で、今降るこの雪に気づいているのは私くらいではないだろうか?そう思えるほどひっそりとした雪の夜だった。いつもなら少し離れた大通りから車やバイクの音がするし、窓下の道を通り過ぎる自転車の音がするはずが、その日は不思議なほど無音だった。
この世界には私以外誰も存在しない。
そう錯覚を起こしてしまいそうな夜。
もう何時間外を見ていたか分からない。考える事を止め、ただ無となる。息をしていないかのように息をし、空気と一つとなる。雪の夜を漂流し続けた私の意識は、次第に窓の外の世界へと向かう。
私は地面に寝そべっている。冷え切った少し湿った地面に耳を付け、世界の音に注意深く耳を澄ませる。雪はまだ私の体に上に降り続けている。小さく弱々しい結晶は柔らかく優しく、私の体をするりとすり抜けて地面へと消えていく。雪は何物でも無く何の感情も無く、ただ静かに私の上に降り続いている。私の手足は冷え切り感覚を失っていくが、私は何も聞き逃すまいと目を閉じ神経を研ぎすませ、意識を集中させる。しかし私の耳は何の音も聞き取れない。この世界は音さえも無くなってしまったようだ。地面に耳を付けながら私は、やはりこの世界には私しかいないと確信する。もう私しかいないのだ。
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