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連載小説 「影跡」 ⑦

                7

 意識がはっきりした時、私は病院のベッドにいた。雪の夜に家の前の道路で意識を失い倒れていたところを運ばれたそうだ。所持品を何も持っていなかったので、病院としてはどこにも連絡出来ず、仕方なく警察に通報したとの事だった。そのあと警察の方がやってきて色々話を聞かれたが、運ばれた前後の記憶が無いので、自分の名前や住所、職業や職場の名前を答えるぐらいしかできなかった。栄養状態が極端に悪かったので、念のため全身を精密検査するのと、薬物使用の嫌疑があるとのことで一日入院することになった。道端で倒れて、その時の記憶がほとんど無いとなると、疑われても仕方ない。
 夕方になって元夫が病室にやって来た。
「日本の警察は優秀だよね。別れた旦那に連絡が来るんだから。」
彼は努めてさわやかにそう言った。
「ごめんね、忙しいだろうに。」
「構わないよ、そんなのは。会社の奴らもみんな君が救急車で運ばれたって聞いて心配してた。大丈夫?何だか随分やつれてるけど。」
私は精いっぱいの作り笑いをして見せた。
「今日って何日?」
「今日?二月四日だけど。」
そうか、もう二月になっていたのか。私は朔の死から二週間以上ふわふわと夢と現の間を彷徨っていたことになる。その間に、朔の葬式は終わってしまったのだろうか。
「何か欲しいものある?下で買って来ようか?」
私はトイレで脳味噌まで吐き出してしまったのかと一瞬思ってしまうほど、彼の言葉が理解できなかった。しばらく考えて漸く理解できた。彼は何か欲しいものはあるかと聞いたのだ。その一連の流れと変な間に思わず笑ってしまいそうになった。
「今欲しいもの、お金かな。」
私はぼんやり壁を眺めながらそう言った。私の前方の壁には独特な形のシミがあった。人の横顔のような、崖のような薄茶色のシミだ。
「お金?珍しいね、君がそんなこと言うなんて。」
彼の声には困惑が滲んでいた。
「仕事辞めて、東京から離れようかと思って。」
彼はしばらく私の顔を見ていた。
「そうか。」
彼の困惑は一層深まった。
「あなたと離婚したからとかじゃないからね。それは私が選んだことだから全然いいのよ。畑とかね、してみたいと思って。」
畑をしたいなんて今まで一度も考えた事無かったが、口に出してみるとそれも悪くないなと思った。
「田舎暮らしするって事?君一人で?」
「うん。それも良いかなって。」
「本気で言ってるの?虫嫌いの君が?」
「必要に迫られれば、人間大概の事は克服できるものよ。」
彼はしばらく黙っていた。元嫁の頭がおかしくなったと思ったのかもしれない。
「僕らが住んでいたマンションね、あれもう手放そうかと思ってたんだよ。誰も住んでないし。分譲貸しも考えたけど、それならもう売ってしまう?そしたら君にも少しまとまった額のお金が入るとは思う。」
私は彼の方を見た。何とも言えない、憐れんだ目で私を見ていた。その顔を見て少し違和感を覚えた。
「もう住む予定が無いなら、そうしてもらえると助かる。」
「なるべく早く手続き進めるようにするよ。直ぐに売却できるかどうか分からないけど、金額にさえ拘らなければ何とかなるだろう。話が進んだらまた連絡行くと思うよ。」
「有り難う。」
それから彼はまた暫く黙り込んだ。
丸椅子を少し動かし、そこに腰掛けた。窓の外はもうすっかり暗くなっている。
「こんな話、弱ってる今の君にするのは間違っているかもしれないけど、今話しておかないと後悔しそうだから。」
彼はとても申し訳なさそうに話し出す。
「君と結婚していた十年間で、僕は一度も君に愛されている実感が無かったんだ。ごめんね、こんなこと言い出して。」
私は何とも言えない変な気持ちになった。なぜ今彼がこんな話を始めたのか、心の内を図りかねていた。
「君はずっと、出会ったときからずっと、他に誰か好きな人がいるんだろうなと思ってた。だから僕に心を開いてくれないんだろうなって。」
私は驚いて彼の顔を見た。いつも身なりよく、どんな時も身だしなみを整えている彼が、よく見ると薄っすらと無精髭を生やし、少し疲れているように見えた。
「だからって僕がしたことは許される事ではない。結果的に君を幸せに出来なかったわけで、そんなのは言い訳にはならないんだよ。それは分かっている。ただ、もっと何か、分かり合える方法があったんじゃないかって思うことがあるんだ。今更どうしようも無いんだけどね。」
私は何も答えなかった。彼と暮らした十年間、彼がそんな風に感じていたなんて思ってもみなかった。
「もっと話すべきだった。何食べようとか、どこ行こうとか、そんな事じゃなくて、もっと本質的な話を。ただ一つ言えるのは君には幸せになってもらいたい。」
彼は俯いたままそう言った。
「私も、あなたに謝らないといけないね。幸せに出来なかったのは私も同じ。あなたがずっとそう感じてたのなら、それは多分そうなんだと思う。ただ私も、あなたには幸せになって貰いたいと思ってる。」
「僕たち、きっと選ぶ相手を間違えたんだろうね。」
彼は少し微笑んだ。
 彼と話していて、私とはつくづく下らない人間だと実感した。何の取柄もない、何の魅力も無い、そんな人間が誰かに愛されたいなんて烏滸がまし過い。能力のない人間に限って過剰な結果を求めたがるものだ。人に幸せを与えるというのは、誰にでもある器量ではない。それは持って生まれた才能と、惜しまぬ努力の末に得られる特権なのだ。この歳にして自らの愚劣さに気付くとは情けない。私は今まで感情を極力表に出さないように生きてきた。人に嫌われるのが怖かったからだ。愛されるよりも嫌われない事に重きを置いて生きてきた。そしてそれが自分を守る術だと思っていた。その結果、一度は共に生きて行こうと決めた彼を苦しめる事になっていたのだ。私が結婚後も頑なに旧姓を名乗ったのは、手続きが面倒だったからではない。彼を心から愛せなかったからでもない。それは私が一番分かっていた筈なのだ。
 
 彼が帰った後、畑を耕すことについて真剣に考えてみた。米を作るのは流石に難しいにしても、何種類かの野菜を作ってみるというのはどうだろう。確かに悪くはない。虫は苦手だが何とかなるだろう。昔から体力には自信があったし、有難い事に足腰も丈夫だ。とにかくもうこの町で暮らして行くことは考えられない。
 そしてもう一つ、とても気になっていた事があった。その事を元夫に聞きに行くべきかかなり迷っていた。彼に聞けば色んな事がはっきりするはずだった。けれど聞きにいかなかった。いずれは分かる事だ。
 
 入院は思いのほか長くなってしまった。二週間何も食事を摂っていなかった為に、私の栄養状態がなかなか改善しなかった事や、記憶が途切れ途切れだったため、頭部の詳細な検査と、心療内科の受診をしなければならなかった為だ。一人暮らしだったので、しっかりと回復するまで入院療養を続けるように担当医が膳立ててくれた。その間に職場へ電話をすることにしたが、携帯を所持していなかったので看護師さんに電話番号を調べてもらわなければならなかった。おまけに公衆電話から電話を掛けるしか手立てが無かったので、電話代まで借りることになってしまった。電話で院長に長期間休んでしまったことを詫びた。現在入院中で、今後仕事復帰が難しい精神状態と体調である事を告げ、退職を申し出た。正直自分でも驚いていた。自分の仕事に誇りを持っている、とまでは言わないが、それでもこの仕事は私にとって天職だと思っていた。どんなに体調が優れなくても、気持ちが落ち込んでいても、仕事を休むことは無かったし、実際職場に入ると気が紛れた。そして患者さんの顔を見ると心が落ち着いた。ところが今の私は、これまでに経験した事が無いほどの虚無感を抱いている。気を抜けばいつでも、数日前の人形のように心を失った自分に戻ることが出来る。院長も私の変化を汲んでくれたようで、深くは尋ねなかった。退院したら面談をしようと言ってくれたので、一先ず電話を切った。それから元夫の右腕である弁護士がマンション売却の為の必要な手続きと説明にやって来た。そして元夫が警察から私について聴取を受けた事、近々再婚することを教えてくれた。愛人だった女性に子供ができたらしい。
「おめでとうって伝えて。」
私は本心からそう思っていた。これからの彼の人生だって幸せであるべきだ。
 

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