連載小説 「影跡」 ③
3
彼の祖母が亡くなったのは再会から半年ほどした、少し肌寒くなってきた頃だった。それまで月に一度の通院に、必ず彼は付き添いとして私の勤める病院に来ていた。待合からキョロキョロと私を探しながら、見つけては変な目配せをする。ただ目配せが下手過ぎていつも笑ってしまう。
最後のひと月は入院生活だった。家の中で転倒し、腰を骨折したのだ。持病があったため祖母はみるみる衰え、結局最期は敗血症で亡くなってしまった。
祖母の死後、しばらくの間彼からの連絡が途絶えていた。ほぼ毎日のように連絡を取り合っていたので、その期間私は自然と彼の事をあれこれと考えるようになっていた。一日に何度もスマホをチェックしたし、仕事終わりに彼が待っているのではないかとソワソワしたりしたが、彼からの連絡は無かったし病院の前で待っている事も無かった。私にとって彼の存在とは何なのか。私を慕ってくれる弟のような存在?私の人生に大きな影響を与えた昔の患者さん?いや、そのどちらとも違っていた。小さな世界ではあったが、私もそれなりに精一杯生きてきた。少しずつ足元を固め、年齢と経験を積む中で、小さな世界ではあるがそこそこの人望と信頼を得てきたつもりだ。その小箱のような地盤の上に私は乗っていた訳だが、その小箱を微笑みながらゆらゆらと揺らすのが彼だ。私の人生で得た数々の教訓と防壁をいとも簡単に突破してくる。それはある意味恐怖ですらあった。深入りするのは良くないと、私の理性は常に警鐘を鳴らしているが、その警鐘の隙間を掻い潜り、彼はスルスルと私の心に入って来る。とても失礼な表現かも知れないが、私のように人生中盤に差し掛かり、ある意味ただ静かに、誰にも迷惑を掛けずに生きて行きたいと願う保守的な人間にとって、彼のようにハイスペックなビジュアルを持つ人にはなるべく近づきたくないというのが本心で、できれば観賞用として遠くから眺めているという距離感が望ましい。近づけば、回復不能な程の重傷を負うかもしれない。いや、負うだろう。なのに、信じがたい事ではあるが、私が、あの青年に心を奪われているのだ。彼から連絡が途絶えた数日間は、私がその事に気付くには十分な時間だった。そして、その気持ちに気付いてからは、常に自己嫌悪の渦の中にいた。
彼から連絡が来たのは、彼の祖母が亡くなってから二週間が経った頃だった。『今から行く』とメッセージが届いたのだ。唐突に。私は仕事から帰宅し、入浴も済ませ、さあテレビでも見ながら一杯やろうか、と考えていた時だった。今から行くと言われてもどこに来るのか分からなかったし、『どこに?』と聞いても返事が無かったので、とりあえず急いで支度をし、彼が唯一知っている私の関係先である私の職場へ向かう事にした。
冬の始まりを感じさせる夜の道を、私は何年かぶりに走った。秋の終わり独特の、少し冷たい透き通った空気が私の肺へと入って来る。車道を行く車のテールランプがキラキラと光って見えた。私の足はどんどんと歩を進めるが、私の気持ちは迷いの中にいた。やっと会えるという思いと、会えば自分の感情を抑えきれないのではという恐れ。進む足取りに、感情が追い付かない。でも進む事を止められない。職場まであと百メートルほどとなったところで私は朔の姿を見つけた。遠くからでもすぐに彼だと分かる。それは私がずっと会いたいと思っていた人に姿に間違いなかった。彼を見たとき、私の胸に何とも言えない感情が込み上げてきた。メタファーではなく、実際に何かが込み上げたのだ。喜びとも悲しみとも言えない、それでいてどちらにも当てはまるような感情。私は走るのをやめ、呼吸を整えながら彼の許へと歩いて向かった。そこにはガードレールに腰掛け、俯きがちに待つ朔がいた。街頭に照らされた彼の姿は、まるで恋愛映画のワンシーンのように美しく、それが尚更私の胸を締め付けた。
私に気付いた朔はフラフラと歩み寄り、私を抱きしめる。両手を伸ばし、無言で私の腰にしがみついていたあの子供の頃のように、何も言わずしばらく私を抱きしめた。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。久しぶりに会った彼は、とてもやつれていて、色白の肌が一段と白く、まるで都会の真ん中に放たれたウサギのように見えた。彼は幼少期の体験によって、誰かの、特に肉親の死は想像以上に重く、それを乗り越えるためにとてつもない労力を費やすのだ。彼の爪の先、髪の毛一本からもそれが伝わってくる。心が摩耗した彼の姿を目の当たりにし、私は自分が彼に対して恋慕の情を抱いた事に後ろめたさを感じずにいられなかった。でも彼にとってそんな事はどうでも良かったのかもしれない。彼はただ全てを受け止めて欲しかったのだ。
しばらくして朔はやっと言葉を発する。
「会いたかった。」
消え入りそうな弱々しい声。それは聞きなれた朔の声だったが、数日ぶりに彼の声を聞き、そしてその時確信する。私は彼を心から愛していると。
「はるちゃんはいなくならないで。」
背丈は私よりもずっと大きくなったけれど、彼はあの時のまま、九歳の少年のままだった。不安と絶望はいつだって彼の体の中心にあって、何かのきっかけがあれば、それはいつでも彼を取り込むことができる。そしてその不安定な断崖の淵を、彼は一人で用心深く歩いて来たのだ。なるべく考えず、動かず、しかし止まることなく、それでいて躊躇せず。少しでも迷いがあれば足元を掬われる。十八年もの間、暗く深い心の奥底の塊は、いつだって彼の中で息を殺して生き続け、長い時間をかけ彼の一部となっていた。それは決して消える事のない塊で、誰にも、彼自身にも取り除く事は出来ないだろう。彼が前に言っていた彼自身の『影』なのだ。私はまたあの頃と同じように、いたたまれない気持ちを抱いていた。私は彼に何ができるのだろう。
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