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連載小説 「影跡」 ⑤

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 二人での生活はとても穏やかだった。
 私の住んでいる部屋は三階建てのマンションの三階で、住んでいる人も割とちゃんとした人が多い印象だった。通りからも少し離れていたし、夜遅くに大声で騒ぐ人もいない。1LDKだがそれぞれの部屋は大きめで十分な広さがあり、その分家賃も割と高い。バルコニーは少し小さいが、洗濯物を干すには十分なスペースだった。夏に出猩々もみじのミニ盆栽を買ってバルコニーに置いてみたら、朔が意外と喜んで手入れしてくれた。ネットで調べて丁寧に剪定し、綺麗な枝の形を作る事にこだわったりした。秋には真っ赤に紅葉したもみじをリビングのテーブルに置いて二人でお酒を飲んだ。
 家に帰ると朔の仕事が遅くなる時以外は、彼が夕食を作って待っていてくれる。一人暮らしの時はずっと自炊していたと言う彼の料理は、とても美味しい。祖母に作ることもあったらしく和食も得意だ。下拵えも丁寧だし、味付けも上品。料理が得意だと、堂々と言える程のレベルだ。朝食は私が作る。和食の日もあれば、洋食の日もある。朔の撮影が長引き、帰りがどんなに深夜になっても、朝ごはんの時間には必ず起きてきて一緒に食べる。
私たちは一度も喧嘩や口論をした事がないし、それどころか彼に対して苛立つ事すらなかった。
 幸せだった。
 しわしわの乾燥した私の手を見て
「ばあちゃんの手にそっくりだ。」と言ったり、冬場にシートマスクをしている私を見て
「もう手遅れだって!」と笑いながら言ったり、服装のセンスがないとか、白髪が増えてるとか、言わなくて良いような事ばかり言う。そしてその度に私の頭の中で『普通のおばちゃん』がこだまする。しかしそのあと必ず
「でもそこも好き。」と言う。完全に掌で転がされている。その自覚は大いにあるが、それでも幸せだった。丸めた靴下を洗濯機にそのまま入れて松ぼっくりみたいで可愛いでしょう?と変な言い訳をするところや、歯磨きしながら話すからパジャマが歯磨き粉だらけになるところも、すべてが愛おしい。出来る事なら二十四時間ずっと一緒にいたいと思うし、一緒にいる間はずっと触れていたいと思う。勿論思うだけで、実際にはしないし口にも出さない。私もいい大人なのだから、その辺は弁えているつもりだ。
 
 ある夜、ベッドに入り眠りにつくかどうかの時に朔がポツリと話し出した。
「十八年前のあの日の話して良い?」
私は彼の方に体を向きなおした。
「あの日?」
「二人とも死んじゃったんだっていう話をした日の事。覚えてる?」
胸がチクリとした。あの日の光景は今でも鮮明に覚えている。あの日見た景色も、少し肌寒かった肌の感覚も、朔の表情一つ一つも。
「ずっと話したいと思ってたんだ、あの日の事。でもできなかった。あの時はよく分かって無かったけど、後になって思うと、きっとはるちゃんの方が辛かったよなって。本当は思い出したくないだろうなって。」
朔は私の目を見ず、少し目線を下げてそういった。
思っていなかった言葉だったので、私は少し返事に困ってしまった。
「なんでそんなこと思うの?」
「多分ずっと悩んだでしょう?どうやって話そうか。俺は何も考えずに、母さんの話とか父さんの話とかするし、叔父さんも叔母さんも全然お見舞いに来ないし、リハビリ嫌がってばっかりだし。困った子供だったよね、マジで。」
「そんなことないよ。悩んだのは確かにそうだけど、困った子供だなんて思ってないよ。退院するまで一度もそんなこと思わなかった。」
「実はさ、あの日はるちゃんとあの話をする前から薄々気付いてたんだよね。もう二人とも死んじゃって、この世にはいないんじゃないかって。でも誰にも聞けなかった。そうだよって言われるのが怖くて。聞いたら本当になる気がして。親が死ぬって事がよく分からないから、いるのが当たり前だって思ってたし。俺、これからどうするんだろうとか、ずっと病院で暮らすのかもとか、働かなきゃいけないのかなとか、子供だから変な事ばっかり考えてた。アホでしょ、病院で暮らすとか。」
朔はふふふと小さく笑った。私は苦しくてたまらなかった。
「で、思い切って聞いてみる事にしたんだよ。でも聞く人ははるちゃんって決めてた。もし誰か大人の人と暮らさなきゃ病院から出られませんって偉い人に言われたら、はるちゃんでお願いしますって言おうって決めてたから。ほんとアホだよね俺。」
「うん。」
涙が止まらなかった。苦しくて息ができない。あの日、あの幼い朔はそんな風に葛藤しながら生きる方法を考えていたのだ。
「泣かないで。ごめん、やっぱり思い出したくないよね。」
そう言って私を抱き寄せた。朔のトレーナーの胸元が湿っていく。
「違う。そうじゃないから。話して。」
彼のあの時の気持ちをもっと聞きたいと思った。おそらく誰にも話すことなく彼は今まで胸の中に閉まって生きてきたのだ。
「あの日、中庭のベンチに二人で座ってたでしょ?リハビリの後に、俺がグミ食べたいって言って、1階のコンビニ行って、その帰り。」
「うん、そうだった。」
あの日の事は良く覚えている。いつもなら疲れ切って病室に戻るのに、その日は珍しくコンビニに寄りたいと言ったのだ。その時私も予感していたのかもしれない。彼に今日話さなければいけないと。
「で、ベンチに座ったけど、俺グミなんて全然食べたくなくて。はるちゃんが不思議がって『食べないの?』って聞いてきて、『後で食べる』とか言って。」
「うん、覚えてるよ。」
「そしたら夕日が沈んできて、それが眩しくて。」
十一月の終わり、その日の中庭、私たちの目の前には大きなビルが二つあって、その間を夕日が沈んでいった。私も、朔も、病院の全ても真っ赤に染めるほどの大きな夕日。
「この夕日が沈み終わる前にはるちゃんに聞こうって決めたんだ。でもなかなか聞き出せなくて。そしたら沈み終わる前にはるちゃんが話してくれた。『朔君に、お父さんとお母さんの話、ちゃんとしなきゃね』って。」
でもそれだけだった。私からはそれだけしか伝えていない。それでも彼は悟った。そして堰を切ったように泣き出した。ぽろぽろと涙は溢れ、やがて長い睫毛がぐっしょりと濡れた。子供なのに、大きな声ではなく苦しそうに、まるで泣いていることを悟られまいとしているかのように声を殺して泣いた。小さな手で力いっぱいグミを握りしめて。そんな彼に私は何も声をかけられなかった。ただずっと彼の背中を擦る事しか出来なかった。
「あの時、はるちゃんが俺より先に言ってくれたから、俺の口から何も聞かなくて済んだんだ。親がいなくなったとか、死んだとか、言葉にするのがどうしても怖かったから。俺が、父さんと母さんを殺してしまう事になるような気がするっていうか、上手く言えない・・・。でもなんかそんな気がして自分の言葉にして口に出すのが怖かった。今でもちょっと怖いんだ。誰かに親の事を説明するとき、両親は死にました、とか言うじゃん?その度に罪悪感っていうか、俺が殺したわけじゃないのに、変な感覚になる。あの事故の日から会ってないだけで、本当はどこかで生きているかもしれない。俺は死ぬ瞬間見てないし、死体も見てないし、葬式も出てない。壺に入れられた遺骨を渡されて、これ君の親だよって言われても、ホントに?って思うよ。いい子にしてれば帰って来るんじゃないかって考えた時期もあったけど、それは違うなって。なんて言うか、この世に俺の肉親はいないって感覚が強くあるんだよね。難しいけど、友達とか、恋人とか、親戚とか、そういう人たちとは違う、血の濃さっていうのかな?繋がるものがある人はもうこの世にはいないんだって言うのが感覚的にあった。あの日はるちゃんが俺の背中を擦ってくれてたでしょう?今でもあの手の感触覚えてるよ。あの時見た夕日と背中に感じた温もりはずっと忘れられない。」
朔は一層強く私を抱き寄せた。洗い立ての朔のトレーナーは柔軟剤の優しい香りがした。
「だからはるちゃんに会えて、嬉しかった。ただ俺が喜んだんじゃない、俺の血が喜んでた。気持ち悪いでしょ?でも本当にそう感じたんだ。」
朔は私の頭に顎を付けた。
「エライこっちゃ、ってなったよ。血が喜ぶなんて初めての感覚だったから。何とかしないとマズいなってなったよね。俺、スゲー焦ってた。結婚してるとか意味分かんないこと言うし、知らねーし。今はるちゃんを逃したら、もう後がないって思ったよ。多分もうこの先、俺はそう思える人に出会うことは無いだろうって直感的に感じたから。で、はるちゃんと初めてエッチしたじゃん?あの時確信したんだよ。あー、はるちゃんも同じ気持ちでいてくれてるって。それで少し落ち着いた。頭オカシイって思わないでね。良く分かんないけど、感覚?直感?そういうのがちょっと人と違うんだよね。一回死にかけたからかな?」
そう言うと朔はまたふふふと小さく笑った。
「こういうの、なんて言うか知ってる?邂逅って言うんだよ。邂逅、めっちゃ難しい漢字。大学の講義で出てきてさ、その前後の話は全然覚えてないけど、この言葉だけはずっと残ってた。偶然の出会いとか、巡り合うとか、そんなような意味なんだけど、そこには運命的なニュアンスがちょっと含まれてる感じなんだよ。何か、今ならその意味が良く分かるよ。俺達きっと邂逅を果たしたんだ。今、俺幸せだよ。これからも多分ずっと幸せだと思う。俺には分かるんだよ。二人でいれば、ずっと幸せでいられるって。」
「私も、凄く幸せ。」
朔は私の言葉を聞き、少し微笑み、私の額に口づけをした。そして朔はそのままゆっくりと眠りに落ちた。小さな寝息を立て、私の頭に顎をつけたまま。
 朔は『俺の血が喜んだ』と言った。それが具体的に何を意味するのか分からない。でもその感覚は私にも分かった。初めて朔と結ばれた夜、確かに私もそう感じたのだ。とても深い部分で繋がっていた、その片割れに巡り合えたような感覚。彼の好きなところを挙げればキリがない。顔も声も、性格も勿論、美しい指や爪の形、長い睫毛や耳の形も。小さな仕草一つ、話し方一つ取ってもすべてが愛おしい。でもそんなことではないのだ。彼が別の顔をしていて、違う声で、違う性格であったとしても、私は恋に落ちたのだと思う。それが朔の言う『血』なのだろう。朔の血が私を求め、私の血が朔を求めたのだ。
 私も朔の顎を頭に感じながら、目を瞑った。
 
 ―その夜私は奇妙な夢を見た。
 私はベッドで眠っている。ベッドから起き上がってみたが、起き上がった        のは私の意識だけで、体はベッドに横たわったままだった。一見幽体離脱の ようだが、これは夢だ。断言できる。なぜならカーテンの隙間から明るい太陽の光が射していたからだ。すなわち私は昼寝をしているのだ。私は今まで生きてきて、昼寝をしたことが無い。というか、昼寝が出来ない。同じく電車や車で寝ることも出来ない。どんなに寝不足でも、眠たいと感じていても、夜のベッドでないと眠る事が出来ない。子供のころからそうだった。そんな私が昼寝をしているということは、これは現実ではなく夢なのだ。
起き上がった私の意識が辺りを見回す。昼寝している私がそこにいる以外は、特に変わった様子はない。いつもの寝室だ。リビングへの扉が開いているので、リビングに行ってみる。誰もいない。時計は午後二時十分を少し回ったあたりだ。窓が全開になっていて、柔らかい風がレースのカーテンを揺らしている。ベランダを見てみると、もみじが青々とした葉を付けている。どうやら季節は夏のようだ。リビングも見回してみる。いつも通り、何の代り映えもない私の部屋だ。玄関へ続く廊下に出る扉も開いていた。何か妙な気配を感じ、少し緊張しながらそちらへ行ってみる。廊下に出たところで、 ある音に気付く。シャワーの音だ。私は一旦引き返した。息を殺し、足音を立てないよう注意深く寝室を覗く。『私』はまだそこで眠ったままだった。もう一度廊下へ戻り浴室へと向かう。静かに、そっと。シャワーの音は一定ではなく不規則だった。誰かがシャワーを浴びているのだ。朔なのだろうか。すりガラスに誰かのシルエットが映っている。脱衣場の籠には洗い立てのバスタオルが用意してある。私が浴室の前に着いた途端、シャワーの音が止まった。私は慌ててリビングの方へと踵を返す。浴室のドアが開き、誰かが出てきた。私は息を殺し、扉の隙間からそっと覗いてみる。そこにいたのは『私』だった。全裸の『私』はバスタオルで髪を拭いていた。顔を拭き、体を拭き、バスタオルを頭に巻く。私はその一部始終を扉の隙間から見ていた。すると、次の瞬間、鏡越しに『私』と目が合った。その時『私』は、少し微笑んだような、それでいてとても悲しげな表情で私を見ていた。
そこで目が覚めた。
 
 朔は私と一緒に住むようになってから、少し気が乗らない仕事でも引き受けるようになっていった。
「もうすぐ三十だしね、大人の男だから真面目に働かないと。」
週に二.三回あった休みは、週に一回、十日に一回になっていき、帰りが遅くなる頻度も高くなった。
「無理はよくないよ。朔は普通の人とは違うんだから。」
私がそう言うと悲しそうに微笑んで
「俺、普通の人だよ。」
と言った。私が慌てて訂正すると
「分かってるよ、はるちゃんが心配して言ってくれてること。今だけだよ。俺の仕事なんてずっと続くわけじゃないし、しばらくしたらまとめて休み貰うから。そしたらどっか行こうよ、温泉とか。でも寒いところの方がいいな。北海道とか行きたくない?」
彼は事故の時、押しつぶされた片肺だけではなく、大きく損傷した脾臓も摘出している。そのため疲れやすく、感染症にもかかりやすい。無理をして欲しくないのだ。でも彼の言葉を信じるしかなかった。彼はその体と二十年付き合って来たのだから、私なんかより余程分かっているはずだ。そう自分に言い聞かせ、待つしかなかった。
 
「今日はパーティに出ろって言われてる。」
ある朝朔がそういって身支度を終え、朝食の席に着いた。
なんでも、有名な時計会社の新作披露パーティだそうで、その時計を身に着けてちょっとしたショーに出るらしい。お偉いさんや広報担当者に気に入ってもらえれば日本向けの広告でモデルに起用されるかもしれないという事だった。
「社長はノリノリだけどね。」
本人は相変わらず気乗りせず、淡白な様子だ。
「だから今日も少し遅くなるかも。ただ・・・。」
「ただ?」
朔は言葉を濁し、私から目を逸らした。
「うん、タイミング見て抜け出して帰って来るかも。久しぶりにはるちゃんとゆっくり過ごしたい。」
体調が良くないのだろうと思った。私に心配をかけまいとしてはっきり言葉にするのを避けたのだ。
「分かった。温かいもの作って待ってる。」
朔はパッと明るい表情になった。
「はるちゃんのおでん食べたい。」

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