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連載小説 「影跡」 ⑧

       8

 救急搬送されてから六日後に退院し家に帰ってみると、案の定、朔がここにいた証は何も無かった。
 彼の洋服や靴、歯ブラシや食器に至るまで、何一つここには無かった。全ての部屋のカーテンを開けるため寝室に行くと、クローゼットの扉に喪服が掛けられていた。喪服を着た記憶もなければ、出した記憶も無い。私は喪服をクローゼットの中にしまった。そして何事もなかったように、洗濯物を洗濯機に放り込み、ガスコンロに置かれていた、腐って悪臭を放つおでんを捨てた。部屋中に腐敗した強烈な匂いが充満し、眩暈と吐き気を覚えた。換気扇を回し、ついでにキッチン周りの拭き掃除もした。気を取り直し、冷蔵庫の中身をチェックし、何か食べられるものは無いか探してみた。消費期限が切れた牛乳や豆腐も全て捨てた。米を洗い、炊飯器にセットした。全ての事を淡々と、粛々と。
 湯を張った湯舟に深くゆっくり浸かり、体を芯まで温めた。脱衣所の鏡に映し出された私の裸は、この数日で肋骨がくっきり浮き出るほどやせ細ってしまっていた。思わず目を逸らす。そしてわかめだけの味噌汁を作り、炊き立てのご飯と卵焼きを一緒に食べた。
 気付くと私は泣いていた。
 確かに私の前の席には、誰かがいたような気がしたのだ。小さな食卓の向かいの席に、毎日顔を合わせ、ご飯を食べていた誰かがいたような。そこには確かに気配があり、温もりがあるような気がした。そしてその人は、私に『俺を忘れないで』と言っているような気がした。でもそんな気がしただけだ。そこには誰もいないし、誰の声も聞こえない。温もりなんてないし、誰も私の名を呼ぶ事は無い。それでいいし、それは紛れもない現実だった。
 ここにはもうずっと前から私しかいなかったのだ。
 私は食べることを諦め、食器を片付けた。
 窓を大きく開け、窓枠に腰掛けた。外の空気はまだ冷たく、私の高ぶった気持ちをほんの少し鎮めてくれた。目の前には葉をすべて落とした出猩々もみじがあった。秋には真っ赤に紅葉したが、今はその葉を落とし、春に向けて体力を蓄えている最中だった。枝だけになったもみじは、それでも尚美しい枝振りを誇示するかのようにゆったりと湾曲しながら天へとしなやかに伸びていた。その横にはホームセンターで買った小さな用具入れがあり、その中には剪定鋏や肥料、そして育て方の小さな冊子が入っていた。何日も手入れしていなかったせいで、鉢も水受けもからからに乾いている。私はペットボトルに水を入れてきて、鉢植えに水をやった。土はカチカチと小さな音を立て水を吸い込み、もみじは美味しそうに水を飲んでいるように見えた。この窓枠に同じように腰掛け、もみじを眺めていた人の後ろ姿を思い浮かべた。そこにあった筈の影を思い描いた。それは、大人になった朔ではなく、九歳の朔だった。大きく赤い夕陽に照らされた、パジャマ姿の朔。濃く長く伸びる朔の影を思い浮かべた。九歳の彼は、もみじを指差しながら私に向かって何かを言った。何を言っているのかは分からない。でも楽しそうに笑いながら私に話しかけている。何と言っているのだろう?そうか、私は彼の、九歳の頃の彼の声や話し方を忘れてしまっているのだということに思い当たる。だから彼の声が聞こえないのだ。
 朔。どうやら私たちのは邂逅でも運命でもなかったみたいだ。君の血は私を求めてなどいなかった。もしそうだとすれば、こんな唐突に私一人を残して居なくなる筈がないと思わない?私は九歳の朔に向かって問いかける。朔は振り返り微笑むだけで答えない。柔らかく冷たい風が、九歳の朔の艶やかな髪を揺らす。
 私は用具箱に入っていた『もみじの育て方』を手に取り、中身をパラパラとめくってみた。小さな冊子の割には、一年目の春から始まり、二年目の育て方までとても丁寧にイラスト付きで書かれてあった。剪定の仕方の項目の、その中の数か所に小さな見慣れないシールが貼ってある。雲のキャラクターのシールだ。それを見つけた瞬間、私の体の中の何かがぐらりと動いた。両足を何かが強く引っ張る。とても強く、強固な意志を持って私を深いぬかるみに引きずり込もうとする。私は足元を見たが、そこには何もない。
 次の瞬間、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。    
   
      終

           

                                

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