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連載小説 「影跡」 ④

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 その夜、私たちはどちらからともなくお互い求め、一線を越えた。
 朔は私の体の、頭の先からつま先に至るまで、隅から隅まで口づけをし、ゆっくりと観察し、何かを確かめるように全身を撫で、体位を変えながら優しく何度も挿入し、そして何度も愛してると言った。その日私は人生で初めてオーガズムに達した。彼はそんな私の恍惚の表情を、ずっと視線を逸らすことなく見ていた。初めはそんな風に自分が見られている事が気恥ずかしいと思っていたが、次第にそれが私をより深い興奮へと駆り立てた。私は何度も何度も達した。そして彼もまた、何度も私の中で果てた。彼が私の体に口づけをする度、私の体を撫でる度、私は今まで感じた事の無いふわふわとした感覚の中にいた。まるで湯舟に浸かっているように温かく、心地良かった。それでいて体の感覚は鋭く、彼の指や唇の形までも、その肌ではっきりと感じ取る事が出来た。
 彼の胸の真ん中には大きな手術痕が残っている。みぞおちから臍の少し上まで。カーテンの隙間から零れる月明かりに照らされた彼の傷跡は、昔写真展で見たナミビア砂漠の砂紋を思い出させた。まるで芸術作品のような傷跡だった。この手術痕のせいで長らく太陽に照らされる事は無かったであろう美しい肌理細かく白い肌。私の草臥れた肌より何倍も美しい。切り取って持ち歩きたい程だ。私はその温かい傷跡をそっと指で撫でた。彼には右の肺が無いので、呼吸をしても右側が膨らまない。上向きに寝転ぶと、左右の体の厚みが違う。私は彼の心臓に耳を当て、彼の鼓動を聞く。彼は私の背中を優しく撫で、小さな声で「ずっとこうしたかったんだ。」と囁いた。
 それから私たちは会うたびにSEXをした。朔は激しい運動ができないので、いつだって優しく穏やかなSEXだ。彼はいつも私の体中に口づけをし、静かに挿入し、背中を撫で、私は彼の鼓動を聞いた。そして私は毎回オーガズムに達した。それは私たちにとってとても重要な作業であるかのように思えた。長い空白の時間を埋めるための、そして傍らにあるべき何かを得るための。          
 朔はたまに私のたるんだお腹をつまんで
「服、一枚脱ぎ忘れてるよ。」と笑えない冗談を言う。
「これ着脱不可なの。諦めて。」
朔は微笑みながら
「でもこれも好き。」
と言う。
 彼は私の髪を撫でるのが好きだ。私の髪は、数少ない私の自慢できる箇所でもある。実際私の人生で一番お金をかけたのはこの髪だと思う。肩下二十㎝ほどまで伸ばし、軽くパーマを当ててはいるが、この歳の割には艶もハリもあると思うし、私も自分の髪がとても好きだ。なので私も、気付くと髪を触っている。そして彼もまた、家でも外でも、並んで座っている時は必ずと言っていいほど私の髪を撫でる。
 よくよく考えると、いや考えなくても私たちは不倫状態である。私の結婚生活は破綻しているとは言え、離婚が成立していない以上人妻である。夫がしている行為と同じだ。夫を責める立場ではなくなってしまった。朔もこの状況は勿論分かっているが、全く意に介していなようだ。
 ただ、朔が私の住む部屋に引っ越してくると言い出した時は流石に止めた。離婚が成立するまではちょっと待って欲しいと。夫とちゃんと話をして、面倒だけど色々片付けるから猶予が欲しいと。朔はウダウダと駄々をこねていたが、何とか納得してくれた。しかしそこから一緒に暮らすまで、半年近くの時間を要してしまう事となる。それぐらい私と夫の離婚には手続きがたくさん必要だった。時には弁護士がやってきて、あれやこれやの書類にサインすることになった。その弁護士とは私も昔から顔見知りだった。夫の片腕として公私共にサポートしていて、とても優秀な人物だ。
「お二人が離婚するのは本当に残念です。」
と彼は本当に残念そうな顔をして言った。
「何かお手伝いできることがあれば、何でも言ってください。自分は社長関係なく、はるさんのお力になりたいと思っているので。」
と力説した。
 求めてはいなかったが、財産分与として、いくらかまとまったお金が入って来ることにもなった。朔の事を夫に隠すつもりは無かったので、すべて正直に話した。彼の年齢を聞いて、夫はずいぶん驚いていた。
「やっていけるの?大丈夫?」
と、本気で心配しているようだった。
「それは私にも分からない。」
そう答えるしかない。本当に私にだって分からないのだから。
 
 そういえば一度、朔が合コンに行った話をしていた。朔の唯一と言っていい友人の誘いで断れなかったのだ。朔と同じ高校、大学に通っていた長い付き合いの友人で、彼にとっての一番の理解者だった。朔が年上の、かなり年上の既婚者と付き合っている事も知っていた。本当は朔を何とかしたいという気持ちがあったかもしれない。実際のところは分からないが、とにかく頭数合わせのために来て欲しいと頼み込まれたようだ。
「多分もう二度と誘われないと思うよ。」
合コン帰りに私の家にやって来た朔は、ソファーの私の隣に座り、私の髪を撫でながらチビチビとビールを飲んでいた。
「めっちゃ怒られた。」
どうやらかなり態度が悪かったようで、その友人を怒らせてしまったというのだ。何となく想像はつく。コンパに行って朔が現れたら、恐らく居合わせた女の子達は浮足立っただろうと思う。朔はある意味The東京みたいな男子だ。勿論それは見た目の話。中身は悪魔なので、話せば話すほど修羅場になる。絶対にその場に居合わせたくない。
「俺が悪い?かなぁ?あいつにはあんま喋るなよ、ボロが出るからってしつこく言われてたから、俺ずっと大人しくしてたんだよ。見た目ばっかり豪華であんまり美味しくない料理だったけど、文句言わずに食べたし。飲み物無くなっても店員全く注文聞きに来ないし、やっと注文したと思っても全然ドリンク来ないし。取り皿も足りないし。でもあいつに言われた通り静かにしてた。でも女の子が交代でずっとあれこれ質問してくるから。」
「してくるから?なんて言ったの?」
「いや、本当に、しつこいよってぐらいに質問してくんの。そっちで楽しく会話してりゃ良いものを、すぐ俺を交えようとして来て、どこらへんに住んでるんだとか、連絡先交換しようとか、マジで鬱陶しくなって。俺のハイボールと取り皿無いし。」
「うん、で?」
「うるさい女だなって言った。優しい言い方でね。」
「うわ。」
「しつこいって。優しくね。」
「うわわ。」
「俺、彼女いるんでって言った。」
「うわうわ。」
 何て感じ悪い男なのだ。まず彼女がいるのにコンパに来るな。百歩譲って、来ても良いが彼女がいることをわざわざ発表するな、である。
「俺が悪い?あいつが悪いでしょ?完全な人選ミスだろ。」
「うん、それはそう。」
その後の空気は想像に難くない。その女の子のトラウマにならなければいいのだが。しかし、その場を少し和ませるように話すもう一人の女の子がいたらしい。
「付き合ってる人の事知りたいって言うから、はるちゃんの話しを少しした。」
「お?」
「はるちゃんの歳言ったらビックリしてた。」
「でしょうね。」
「バリバリのキャリアウーマンとか、美魔女とか、そんな感じの人かって聞かれたから、全然違うよって言っといた。」
確かに、世間で言う美魔女とは程遠い。
「普通のおばちゃんって言っといた。」
ああ、普通のおばちゃん。なんと胸を抉るような響き。
「それはそれは。」
返す言葉がない。
「でも世界一可愛くて大好きなおばちゃんなんだよって言った。」
ああ、全然嬉しくない。普通のおばちゃんと言う言葉の威力が強すぎる。言葉選びが下手過ぎる。
「何でみんな、歳とか気にするのかな。」
朔はしばらく後で、トップコートを爪に塗りながら少し不満げに言った。小さなマニキュアの瓶には可愛らしいシールが張り付けてある。よく見るとそれは雲のキャラクターのようだ。確か、マネージャーの娘さんに貰ったシールだと言っていた。朔は彼女のお気に入りで、たまにその子から手紙やお菓子を貰って帰ってくる。
「年齢って、生まれてから今まで何年経ったかって事でしょ?経験値の目安みたいな。それなのにいちいちみんな振り回され過ぎだよね。俺は全然気にしないよ。俺は今までのはるちゃんの事を知らない。でもこれから先はまだ何十年も一緒にいられる。それの方が大事。」
 そう言って次はピスタチオをポリポリ食べながら、また一口ビールを飲んだ。彼の中で歳の差なんて、そんな感じなのだ。彼の言葉を聞いて、私は少し自省した。年齢に拘って、卑屈になっていたのかもしれない。私は彼には釣り合わない。彼は若くて綺麗な女の子と結ばれるべき。私は彼の未来を台無しにしている。そんな具合に、勝手に彼の人生を憂慮していた。それに、自分に毎月生理があることにホッとしたりもしていた。生理が無くなれば、彼が離れて行く訳でも無いだろうに、そんなことでまだ自分に恋愛する権利があると思い込もうとしていた愚かな自分を恥ずかしいと感じた。彼の人生は彼だけの物なのに。それと同時に、私は朔の心の内を何も知らないのだと思い知らされた。苦しんでいた時の朔だけを記憶に残して、成長した先の彼を知れていない。当たり前の事だが、彼は二十九年間生きてきて、その生きた分だけの世界を見てきたのだ。でも私は彼の人生の殆どを知らない。何に笑い、何に怒り、何を大切にしてきたのか。どんな人と出会い、どんな女性と恋をしたのか。毎日何を感じ生きてきたのか知る由もない。それが残念でならなかった。埋めるには余りに長い月日だ。
 
 離婚協議で夫と最後に会った日、夫が車で送ってくれることになった。そこで仕事帰りの朔と鉢合わせしてしまう。何に対しても割と無関心な朔が、夫を見た途端表情が変わり、みるみる顔が紅潮していく。
「由良木朔君かな?彼女から話は聞いてますよ。いろいろ長引いちゃって申し訳なかったね。無事終わったので・・・」
言い終えるかどうかのタイミングで朔が話し始める
「はるちゃんは俺が幸せにするんで大丈夫ですよ。心配いらないんで。」
朔は今まで聞いたことが無いほどの早口でそう言った。
「あ、うんうん、そうしてもらえると嬉しいよ。」
明らかに朔は興奮していた。
「そうだ、君が出てる雑誌見たよ。すごいね、モデルさんなんでしょ?やっぱりかっこいいね。写真より実物の方が男前だよ。」
朔は冷静に話す夫に、より一層怒りを覚えたようだ。
「今そんな話ししてない。離婚したら全部チャラじゃないから。俺の大事な人を傷つけた事に変わりはないから。離婚してくれたのは嬉しいけど、そうでなくても彼女は俺のものになる予定だったんで、別に結婚とか離婚とか関係ないんだけど、彼女を傷つけた過去は消えないし、俺もあんたの事許さないし。でもこれからは俺たち幸せになるんで、もう彼女には二度と会わないでもらえるかな。」
支離滅裂な事を捲し立て、私の腕をとりマンションに引っ張って行った。置いてきぼりにされた夫の顔を見てみたかったが、まあ見ても仕方ない。エレベーターの中でも朔は、私の腕を強く掴んだまま興奮冷めやらぬ表情で口を強く結び、鋭い眼光でまっすぐ扉を睨みつけていた。部屋に着くなり私を抱き寄せ
「もう俺、離れないから。ずっとはるちゃんと一緒にいるって決めたから。」
そう言っている間も、朔の鼓動は激しく波打っていた。それは強い怒りの感情だった。普段表情を変えず、飄々と生きているように見える朔がここまで怒りを露わにしたのを初めて見たので、戸惑ってしまった。夫の浮気を知って、もちろん私もショックだった。好きになって結婚したわけだし、夫といる時間は楽しかった。生活そのものも満たされていて、世間的にも幸せな夫婦に映っていただろうと思う。それが夫の裏切りによってすべて壊れてしまったわけだ。夫は愛人に住む部屋を宛がい、海外旅行に行き、毎月の生活費も援助していた。高価なプレゼントを贈り、小型犬も飼ってあげた。すべて知った時は内臓がもぎ取られ、何もかも空っぽになったような感覚に陥った。仕事帰りにふらりと公園に寄り、そのまま何をするでもなくベンチで朝まで過ごすこともあった。何も考えたくなくて、ひたすらドライブして、気付いたら富山県だったという事もあった。それでもどこか予感していたのだ。彼と添い遂げることはないだろうと。いつでも別れは訪れる。そしてそれは大概唐突に。予期せぬ別れがあることはどこかで常に覚悟していた。だから、夫に対して怒りをぶつける事はなかったし、愛人に対しても何の感情も抱かなかった。ほらね、という感じで。
 だから朔が私の代わりに怒りを表してくれて、初めて、私は傷ついていたのだと知った。そうか、私はずっと悲しかったのだ。そして誰かに必要とされることを望んでいたのだと。朔は何かの拍子に私の負の感情を感じ取ったのかもしれない。自分でも気づかなかった感情。気付いていても気付かないふりをしてやり過ごしていた感情に。

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