うっかり言っちゃって

荒井首相秘書官が2023/2/3夜、首相官邸でオフレコを前提にした取材に対し、性的少数者や同性婚のあり方を巡り「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」 と発言して

3日深夜、謝罪・撤回した。首相官邸で記者団に対し「先ほどやや誤解を与えるような表現をして大変申し訳なかった。撤回させていただく」と述べた。

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ポイント
①「やや誤解を与えるような表現」…LGBTQ見るのも隣に住んでるのも嫌だ、これは「誤解」しようもない発言だし、さらに「与える」ですらなく「やや」与える「ような」ここに二重の誤魔化しがある。荒井氏は結局、謝っていないのだ。言葉使いをきちんとジャッジしていこう。
②首相には申し訳ない…安倍晋三時代にもあったが、謝るならば国民だろう。これは誠におかしな発言だと声を上げたい。
③こういう気持ちを持つこと自体は問わず、こういう議員が少なからずいる、それが大きな力「与党」であり、なんなら、旧統一教会や日本会議の思想であり、そのこと自体を問うべき。

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議員は人間で、発言の自由、思考の自由がある。それに、多様性は大切だ。変な話、差別的発言をしたことを、その被差別者に向けて謝る必要だってない。ナチスだって、多様性と言えば言えるくらい。

ただ、「何を差別と判断するか」これは、圧倒的な数の力が決める。
ナチスがあれだけ巨大な声となりダイナミズムを誘導したのが問題なのであって、もし6000万人のうち、50人くらいの団体ならば、「行き過ぎたごく一部の団体」で済む話ではある。

重要になるのは、なんと言っても国民の声。

国会議員の発言があった時に、社会の規範を示すのは、国民である。
オフレコ発言も含めて、おかしな発言には、国民が声を上げねば。

逆に、国民がサイレントでは、どんな差別的な酷い発言も享受されたと考えることだろう。そして、そういう空気がさらに酷くなる。その行く末がナチスだったのは言うまでもない。先導者ももちろん問題だが、サイレントマジョリティの害悪さには到底敵わない。

SILENCE ENCOURAGES THE TORMENTOR.
NEVER THE TORMENTED.

社会のレベルを決めるのは、国民。
国際的人権意識からかけ離れて行くばかりの、中央政府。しかしサイレントな国民はそれを後押ししかしない。

また、今回メディアで報道されたから良かったものの、国民が知り得ないもっとたくさんの秘め事がある政治の場。
それを世に知らしめるのは、メディアの力。
日々起こる出来事のうち、何を取り上げて、何を取り上げないのか。

ここ数年の日本メディア、特に政治記者のジャーナリズムのあり様の変化には、心配しかない。
ジャーナリズムを失ったメディアがどんなものか、80年前にも経験しているはずなのに。

メディアには良心ではなくクリティカルさを求めたい

今朝、家族で、職場で、友人とで、まずはこの話がされるような、そんな重要な問題だったけれど、

気軽に周りと話せる人は今、どのくらいいるんだろう。

私はhumanrights とdignityに照らし合わせ、この発言は問題あるとする立場。「めんどくさい人」と言われながらこれからも周りに話しかけて行く。

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