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ドラえもん

今でも大好きドラえもん。

便利な道具はなんと2,000くらいあるらしい。

ざっと思い浮かべて20が限界な私。その程度の「好き」で失礼。

それなのに道具について体系的に考えるなんて、藤子先生に失礼だが、先生は逆にそんなに御心狭い方ではなかろう。

ということで、道具。

いいな、と思う道具は数あれど、時には「ん?」と思うような、手抜き感が否めない雑な道具も同じくらいある。

それ、代用できるよね?みたいな、似通ったものもある。

全ての道具を並べて、論文でも書いてみたい。

ああ、夏休みの自由研究に、やりたかった!!なにせ忙しいのだ、ワーキングクラス、しかも書店経営の子育て中の女は。

とりあえず、
軽い思考でざっくり分けると、

①みんなで便利になるもの
②1人だけでないと効果がないもの
③矛盾するもの

①タケコプター、翻訳コンニャク、暗記パン、エラチューブ、思い出再現機、タイムマシン

②どくさいスイッチ、透明マント、悪魔のパスポート、表情コントローラー、さいみんグラス、へいわアンテナ、ひい木、オールマイティパス、ジーンマイク

③もしもボックス、ソノウソホント、人生やりなおし機、お医者さんカバン、通り抜けフープ

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①は、なんとなく、みんなで使ってみんなで幸せになれるタイプ。もちろん80億の人がいっぺんにタイムマシンを使った時のエネルギー問題、タイムパラドクスの問題などありそうだけど。でも、エラチューブとか、深海クリームなんて、みんなで一緒に使えたら楽しそう!

②は、21世紀だか23世紀だか知らないが、ドラえもんの時代の人たち全てが持っていると仮定すると、おかしい、と、幼心に心配した道具。
どくさいスイッチを、ひい木を、みんなが持ってたら?めちゃくちゃおかしなことが起きない?と。とりあえず、必ず「その道具を持っていない相手」が必要な道具であり、その相手が、果たして存在している時代なのだろうか?
あと、何というか、オールマイティパスで、無料で入ったら、公共の乗り物は経営が成り立たないし、無料で入られるお店とか(私はそっち側だから)困るよねー。尾崎豊の、盗んだバイクで走り出す、の、「バイクを盗まれた側」や、校舎の窓ガラスを壊して回って、その翌日に「ガラスを片付けさせられる主事さん」よねー。

③は、同時に複数人が使ったら矛盾しそうだなと思った。②と似ている括り方かもしれないが、違うのは、相手がいなくても道具として成り立つところか。

これらの分類はかなり雑で、精査もしていないので、ツッコミ処あると思う。しかしこれは、ドラえもん道具についての論評ではないのでまぁ置いといて。

それにしても、ドラえもんの時代のエネルギー環境は、どうなってるんだろうか。今よりもサステナブルで作りやすい電気なんだろうか、それとも私の考える範囲を超えた超エネルギー的なものなんだろうか。もしくは、物理学すらも覆す、エネルギーそもそも不要な時代なんだろうか。

もし、そんなだったら、そもそも、そもそもよ、これらの道具すら不要になるのではないだろうか?

閑話休題。

私が恐ろしく思うのは、人の心を動かす系の道具。
ジーンマイクとか、催眠グラスみたいな。
人の心を動かす、または人をどうこうしようとする系の道具は、生まれついてのプロレタリアの私は、どちらかと言うと「どうこうされる側」なんだろうなと、自然に感じていた(おお、なんと染みついた奴隷根性)。そうなると、他人事ではない。催眠グラスが、この世に氾濫していたら、どうなるか、興味深いところである。

私がどうこうされるくらいなら、社会に影響は皆無と言っても良いだろうが、例えば10億人でも使えばどうだろう。
行動社会学の観点からも考えるに恐ろしい。

が、とりあえず、簡単に考えると、

便利な道具が広く蔓延する結果、
その価値が下がる、

または、

違う価値観になってしまう

ということにはならないだろうか。

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車や飛行機の発明は、世の中のかなり広い範囲の人にベネフィットをもたらした。
多数の人たちで、便利になって行った。

テレビも、みんなで楽しんだ。

20世紀は、そんな風にみんなで発展して行った。公共性があった。

さて、現実の21世紀は。

++++++

90年代前半くらいまで、私にとって外国は遠かった。国際電話はすこぶる高額だし、受け答えに微妙な時差があったから、会話もイマイチ弾まない。エアメールは1週間かかったし、小包なんて船便で1ヶ月だ。

それが、90年代後半になり、私がコンピュータに触れられるようになり、ガラリと変化した。
初めて電子メールをした時の感動たらない。ボタンひとつであっという間に物理的に距離を凌駕する。
メールは瞬時にブラジルにだって届くのだ。信じられない。あの時の感動は、ダイヤルアップの音と共に未だに残っている。

その後も、メキメキと頭角を表すインターネットの広がりで、世の中が格段に進化していった。間違いなく、明るい21世紀の予感がした。

働かなくてよい世界、楽ができる世界、ボタンひとつでいろいろ可能性が広がる世界を夢見た。

今まで、FAXや電話で苦労してやり取りしていたものを、データで転送できるようになるし、アフリカから南米から、世界中との距離も縮まる。

こんな、素晴らしい世界があるなんて。仕事はタスクをコンピュータで管理して、スケジュールも機械が管理してくれる。
仕事が効率化される。

そんな夢を抱いた。

確かに、ある程度楽になった部分もある。
しかし、20年以上経って確実に言えることは、

さして仕事は減っていない

し、なんなら

イラチの社会になってしまって、我がが大変になってしまった。

だ。

ここは、インターネット発明者も、きっと想定外に違いない。(もし、そうなることが予想できていたら、そりゃすごいや。)

すぐに答えを出したがる。疑問をすぐに解決したがる。
そのスピードは、加速し続ける。
24時間、SNSに縛られている。

メールは、まぁそれなりに受け手の量が必要であるが、インターネットは、もしかしたらごく一部の人たちだけの特権にしておかないと、優位性がなくなるのではないだろうか。

インターネットがそれほど広まっていない時代は、インターネットをバシバシ利用している人は優位に立つことができた。
人より早くたくさんの情報を得ることができ、人よりもタスクの管理に長けていた。

優位性は、主に「早さ」に寄っていた。

しかし、インターネット人口が増えれば増えるほど、その優位性は薄らぐ。
みんなが同じく、早いのだから当たり前だ。

メールをすることで、すぐに返事が返ってくるようになり、サクサク仕事は進んだが、ある一定のラインを越えれば、なんてことない、自分もサクサク返さなければならない訳で、まぁー大変。24時間体制で、さまざまなやりとりに忙殺されている。

自分だけが早いならよかったけれど、パブリックになったら、全体のスピードが上がって

今では、文化すらも早くなってしまった。

文化は、醸成が必要で、絶対的に(相対的ではなく)時間が必要なものである。それを待てなくなった現在では、発酵が未熟で酸っぱいだけで美味しくないワインのように、文化の顔をしただけの、「使い捨て暇つぶしのワインに似た何か」に成り果ててしまった。

人の手から生まれるものが、その場限りの連続で、軽薄さしかない。そこには人の心を動かすほどの感動は生まれない。それは、果たして文化とは言えないのではないか。
10年前の歌や絵画が、今でも生きているか?
今の流行は、10年後に、影も形もなくなっていない、と言い切れるか?

+++++++

またしても、話題が逸れた。

みんなが便利になることは、まぁ、良いことだ。インターネットも、みんなが望んだ結果である。人間、簡単な方簡単な方に流れることは、性である。
現代の病、これも、後世の歴史家が、判断することだ。私にはそんな権利はない。

話は戻るが、
ドラえもんの便利道具の中で、私が気になって仕方ない②に関しては、なんとなく人間の性とは言え、あまり看過できない。

自分だけが得したいとか、自分だけが助かりたい、とかそういう気持ちだ。これもまた、人間である限り避けられない性質であるから、受容し、落とし所を見計らって行くしかない。

ドラえもんの「どくさいスイッチ」は、お話の最後に、このスイッチは、本当は独裁者を懲らしめるためにあるんだ、で幕を閉じるのだが、これまた幼心に、モヤモヤしたものだ。そんな終わり方?甘い!

人は独裁者になりたがる。権力者でも良い。そこに目をつぶっていては話は進まない。藤子先生ほどの方には、もっと迷路を複雑にしてほしかった。

自分だけが特別。

アメリカの銃社会も、おそらく、危険な敵に刃向かうための武器であり、身を守る権利として認められている社会である。
それが、自分だけだったなら、有効なのである。みんな持ち始めたら、ただ撃ち合うだけである。そして現在がある。

核爆弾スイッチもそう。自分だけが持っているなら、十分に有効なのだ。アメリカもロシアも中国もフランスも、互いに発射ボタンに常に指を置きつつ笑顔で語り合っている。

コントかな。ホント、おかしいよね。滑稽。

みんな偉そうにしてるけど、この人たち、他人のウンコを処理したことない人たちだと思う。ウンコ処理してごらん、核爆弾とか落とす気になれないだろうから。

また話が逸れた。

環境問題もそう。自分1人だけ、エネルギーをガンガン使用したいし、ゴミも排出したい。快適な環境で暮らしたい。

この気持ちは、そもそも人間に備わったものなんだ。ガン細胞なんかじゃない。そこを取り除けるようなものじゃない。まさしく人間が人間たらしめている気持ちだ。そこから、目を逸らさないようにしたい。

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ローマ帝国の発展の歴史は、寛容な同化政策にあったと言われる。
みんなで発展しよう、という社会民主主義的な考えがあったことに、誠に先見の名を仰ぐ思い。何千年も前に、まだ民主主義なんて言葉が市民権を得ていない時代に、非常に素晴らしい、合理的かつ、人間の性質に向き合った政策を打ち出せるアウグストゥス(もちろんそれまでに基盤を作った人たちも)は、素晴らしい。
もちろん彼らは現代で言えば壮絶な差別主義者であり、身分制を疑ったことすらない皇帝である。私のような貧困層女性の幸せなんて知ったこっちゃない人たちであるのは理解している。
しかし、2000年前の話なのだ。私はものすごいことだと考える。

彼らの政策によるパクスロマーナに準えて、パクスアメリカーナなんて、ついこの前まで言われてたが(ああ、そんなこと、知る人も最早少ないのかも)ローマ人に比べたらちゃんちゃら可笑しいレベルである。

現代の、ごく一部の一握りの人たちだけがよい思いをしようという寡頭政、独裁制は、人間の取り除けない性質から起こるものではあるものの、やはりこの性質と戦い続けなければ、様々な問題の解決には遠くなる。

民主主義が、最高の政体では決してない。だが、地獄か、それより少しマシな地獄か、と言われたら、後者であるのは間違いない。

私は、人類が、民主主義よりももう少しマシな地獄の政体を、必ず産めるとも、思っている。

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