障害者とは

言葉は意外にも社会や生活、行動や思想と密接に繋がっている。

「そんなの当たり前だ」

と言われるが、そうやって日々意識して過ごしている人は、そう多くないと思っている。

言葉遣いにおいて、かなり注意している人とそうでない人とで、5分会話すればわかるほど。
そしてその小さな積み重ねは、実は社会の空気を醸成できてしまう程度には、重要な視点だと感じている。

そして言葉を疎かにすることは思想をも脅かす危険性があると常日頃思っている。

大人になってから学ぶ言語はそんなものの発見の連続で非常に面白かった。

ごく普通の言葉を組み合わせたら、相手を非常に侮辱する意味になると知らずに大家さんに向けて吐き、住んでいた家を寒空の下追い出されて冬のミラノで心身共に震えたこともある。

日本語をイギリス人に教えていた時に「彼」「彼女」は三人称単数代名詞のこともあれば恋人を指すこともあると説明した。隠語ではなく人によっては恋人の意味の方が圧倒的に多いこともある立派な市民権を得た概念である。しかし「彼ら」「彼女ら」複数形は(もちろんだが)恋人の意味では全くない。それは現在一夫一妻制の下、社会通年とした「男女一対一」恋愛観に寄るもので、ポリアモリーが浸透すれば複数形もそのようになる可能性があるかもしれぬ。などと考え合って楽しい時間を過ごしたものである。

昔は「をかし」は感動を現したりと風情のある言葉だったが、1000年後の今は面白くて笑い出したくなる気持ちや頭がイカれていることを表すようになり、時代によって変化していることがわかる。

ヤバいも、ちょっと前まで気狂いじみた意味だったが現在はポジティブな意味も持つ。

言葉は世につれ、世は言葉につれ。

また権力者の言葉には、より注視しなければならない。

国会を空費させる言葉使い、「いずれにせよ説明責任を果たしていく」なども、説明責任という言葉の空虚感を演出している。

政治資金問題も、もはや脱税、汚職、犯罪なのに「政治と金」と言われる。

司法の部分にも言葉は刑の重さに影響する程度には重要である。

「わいせつ」「いたずら」というのももはや罪深い。性犯罪であることを軽く見せて、さらにそれが裁判で適切に裁くことを阻害しているとしたら?

メディアが政府や犯罪者や加害者に寄り添ってはいやしないだろうか?というのを監視し続けるのは市民の役割である。メディアはまさに、言葉を武器に私に挑んでくる、そんな気がしている。

おっと、今回はそんな話じゃなかった。

障害者についてである。

障害、及び障害者を描いたたくさんの絵本がある。

バスがきましたよ
さっちゃんのまほうのて
どんなかんじかなあ
みえるとかみえないとか
みんなとおなじくできないよ
すずちゃんののうみそ
ふしぎなともだち
ありがとうフォルカー先生
ぼくのだいじなあおいふね
かっくん
わたしたちのトビアス
わたしはめではなします
クシュラのきせき
ゆびでみる
せかいのひとびと
ちいさなてのおおきなうた

これらは、障害や障害者が紹介されている本と、その人たちを取り巻く周りを描いた本。
どれもさまざまな視点で興味深いし勉強にもなる。
これからもたくさんの良本が出てほしいし、今個人的に求めているのは、支援者や家族の目線の絵本である。
街中のバリアフリーを描いたものもまだまだ数が足りてない。

そして内部障害や基礎疾患などは絵本で描きづらいからか、タイトルがパッと思いつかない。絵本でぜひ、紹介され、子どもたちにも読んでほしいと願う。

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少し前に、「障害者」を「障がい」「障碍」と記載するようなムーブメントがあった。私は悩みつつ特にどちらでもなく使用していた。

アメリカなどのムーブメントと異なり、これは日本社会では単なる言葉遊びで終わる危険性を指摘した。言葉が大切ではあるもののこれはhumanrightsなどと同様、中身が空っぽの入れ物の名前ではないだろうか。

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私は日本では中より下くらいの近眼だ。
ウワサにはマサイ族は視力5.0とか言われるから、私はマサイ族の中では超ど近眼、マサイの生活には遥か遠くの獲物や敵を見つける視力が必要であり、私はそれを持っていない。つまりマサイの皆ではかなりの障害者である。

翻って日本での私は、映画の字幕や運転には視力矯正グッズが必要である。が、私が映画を見ず運転しなければメガネ不要だ。障害の程度はやや軽くなる。

つまり、自分の所属するコミュニティでの平均的な暮らしに、体が合っているかどうかということで、合っていない人のことを、日本では現在のところ所謂「障害者」と呼ぶのだと思う。そしてそれを何かをもって補うことが社会福祉なのだと思う。私にとりメガネはその一つ。

「平均的な暮らし」とは。

例えば手話をする人たちの中では、手話が不自由な私は誰とも自由に話せない。私だけが思いを伝えられない。

さらに、両手首を骨折したら、手話ができなくなって。

また、私は声が小さく、大きく出そうと思っても無理なので、メトロの騒めきの中では口をつむがざるを得ない。これもまた、自分の思いを伝える術が人より少ないということで、障害の一つだと思う。拡声器が必要だ。


花粉症は頭がボーッとするし気分は乗らないしで、生活に支障をきたすし、食べ物のアレルギーは命の危険もあるから常に気をつけなければならない。これも一つ、障害の一つ。

ところで、この社会を誰が設計してきたかと言えば、権力者である。最初はそこから文明が起こり、人々は少しずつ「権力者の範囲」を広げてきた。

現代の民主主義は、まさに市民が権力者であれる政体なのだと思う。

例えば、こんなふうに考える。

・車椅子の人にしてみたら、公園の椅子は必要ないので、椅子は歩ける人のための福祉
・夜道を照らす灯りも全盲の人は必要ないので、視力に頼って暮らす人のための福祉
・音楽もアナウンスも聴者だけのサービス

のはずである。
でも、それらはほぼ全国津々浦々、税金で、(つまり個人的には無料で)設置されている。
なぜならこの場合のサービスは権力者が作ったものだからだ。

マジョリティでさえない。「権力者」である。

そしてそこから溢れた人たちが、障害者である。
つまり、障害とは、とある人にとって生活し辛い社会的ハードルのことであり、人そのものを指すのではない。

こんなこと、わざわざ口にするまでもなく、みんな分かっていることだと思っている。

しかし「障害者」という言葉が社会に与える影響は、少なくないと考えている。
未だに、エレベーターが混んでいて中々乗れないことを訴える車椅子ユーザーが、ワガママだと叩かれるような世の中だから。

人権の視点で語られれば何も難しいことではないはずなのに、

車椅子ユーザーは常に周りに感謝し、優しく、下手に出なければいけない、そうでなければ助けない、みたいな言説はまさに「障害者」という言葉の産んだ害悪であると思っている。恰も障害を抱えている人を罪人とし、自己責任を押し付ける。

※因みに、支援者の意見もまた重要である。綺麗事ではないのも分かるつもり。

これらは社会設計の問題が多いのだと思っている。

エレベーターを作り、段差を無くし、点字ブロックを設置して信号を工夫するなど、徐々に進んできたのは確かだし、これからもますます進歩して行くと思っている。

同時に海の外と比較するにあまりに遅々として進まないことも多い。それは、社会の空気である。人権の教育がなかなか進まない。

一因として現在の中央政府が打ち出す、自助、共助を求めるような公言や、家父長制を是とするカルト宗教から票を集めることで繋がりを強くすることが発するメッセージは、公助から社会福祉を遠ざける。

思い出すが、オランダでは私は小人だった。オランダだけでない、西ヨーロッパで暮らすと、トイレ、洗面所、シャワー、キッチン、お店のカウンターなど至る所の高さが「高い」と感じる。まるでガリバー旅行記のブロブディンナグ国のガリバーである。

もちろん彼の国の職場もそうだった。狭い厨房では高いところに重い鍋が入っていたから小柄な人はちょっと大変だ。
ここで、日本女性と男性の違いがやや透けて見えた。ヨーイドンで始まったヨーロッパ生活、男女でそれぞれ地方に散らばりそれぞれ頑張っていると思っていたら数ヶ月で男性はほとんど帰国したのを後で知った。
ただの個人の感想だが、女性は日本でも社会設計的に不利に作られているため、今更、それほどハードルを感じない(から、帰国しない)が、男性は日本社会が体躯的にぴったりなので違いをより重く受け止める(から、割と早く帰国した)と。背の高い国の設計の中では、小柄な日本男性には少々暮らし辛いということで、これはオランダやドイツなどでは、日本男性は広義的に障害者となるのだと。

※もちろん、上流になればなるほどユニバーサルになるのはオランダに限った話ではない。あくまで私が身をもって体験したのは比較的にせよ貧困層の話である。念のため。

つまり、五体満足イコール非障害者、ではない。あくまで、社会設計の話ということを、今一度、広く市民の間でコンセンサスを得て行きたい気持ちがある。

つまり障害者とは、障害とは、人が負うのではない。
ある人にとって社会の側が障害になっているということ。もし私たちの暮らす街に「障害者」なる存在がいるとしたなら、その人たちが障害者なのではなく、私たちが障害を作り出している、「障害創出者」と呼んでもよいくらいだ。

身体障害、知的障害、精神障害など線引きして、公助や福祉支援することは非常に重要なことだ。予算も限られているし、線引きが当事者を楽にすることもあると聞く。私自身も、幼い頃にASDか何か診断がつけば、少し気が楽だったのではないかと思っている。

しかし。
公の支援や福祉「ではない」ところ。人々の心とでも言おうか、そこにあまりにも残酷にあまりにもあっさりと線引きすることは賛成しかねる。
私たち市民が何やら醸成する社会の空気なるものは、もう少し丁寧に「障害」について議論して、作り出していく必要があるのではないだろうか。

障害者に対するこの社会の不寛容を日々、見せつけられる度に思う。

人権について日本人はあまりにもナイーヴ過ぎる。

2024年の先進国に生きる市民ならば、障害となるものを人権として取り払う方向に民主主義的に議論を重ねる、もはやそれは義務ではなかろうか。

言葉の重みについて言えば「障害者」と言う言葉を「障がい」と書くようなことではないのだと、強く訴えたい。

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※ペドフィリアも、小児性愛障害と呼ばれる。これは、また違う話である。

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