見出し画像

『惑溺Ⅱ』10句選

 なんとなく惑溺は造語だと思っていて、改めて調べてみるとすでにある言葉だということが分かった。
ある事に夢中になり、本心を奪われること。」
 句会に多く参加したり主宰したり、大量の句作をしたりと彼女の熱量はすさまじいものがある。彼女の惑溺っぷりとしての作品集なのかもしれない。

夏痩や渚見てゐるだけでよく
 季語は「夏痩」。夏の暑さで食欲が減り、体重が落ちてしまうこと。
 作中主体は「渚」を「見てゐるだけでよ」いという。撮影だろうか、養生だろうか、デートだろうか。ただただ静謐な時間。楽しむというのは何も心の底から生命エネルギーを発散させるばかりではなく、あるがままを、そのものを取り入れることも言えよう。静謐なままに、心のままに。
※「夏痩」についての解釈はこちら

庭たのし人参の花茄子の花
 季語は「人参の花」と「茄子の花」の二つ。どちらも夏の季語だ。
 俳句という形式の良さが存分に発揮されていると思う。三段切れはそのまま作中主体の興味の移ろいであり、季重なりは「庭」の豊かさ、「庭」の「たのし」さに繋がっている。あまり推奨されていない(成功させにくい)二つの手法を使いながら、これほど自然に仕上がっていることに驚いた。

びつしりと雨に吹かれて鵙の贄
 季語は「鵙の贄」で秋。鵙(もず)が捕らえた獲物を木の枝などに刺しておくこと。
 下五の「鵙の贄」でぐっと映像が構築される鮮やかさ。枝に刺されては「雨」をしのぐこともできない。ゆるやかに死んでいく「贄」のリアリティを感じる。

生意気な足の出てゐる炬燵かな
 季語は「炬燵」で冬。
 「生意気な足」という把握が面白い。作中主体は女性で、「生意気な足」の主は弟か恋人か。しかも「足」は入っているのではなく「出てゐる」のだ。温まりたいが「足」を全て入れると暑いので「出」している。憎くも愛らしい「足」だ。

食べられる花もありけりクリスマス
 季語は「クリスマス」で冬。
 「クリスマス」の句は類想の山といった印象があるが、作中主体は「食べられる花」を「食べ」ている。なかなかない句だ。「食べられる花も」ということは飾られている花もあり、対比させられることでより一層驚きが増す。また、「クリスマス」に「食べ」るケーキや七面鳥の他に(もしくは付け合わせとして)「花」があるという読みもできよう。遅れてやってくる技術進歩への感。

焼芋を大きく割つて恋敵
 季語は「焼芋」で冬。
 下五に驚く。「恋敵」であっても「焼芋」を分け与える懐の深さというか、渋々渡すというのはあまり感じられなかった。やはり「大きく割つて」いるからだろう。作中主体の心情や「恋敵」との状況など、やろうと思えば小説にもできそうなものを、上手く俳句に落とし込んでいる。

サイリウム折つて涼しくなりにけり
 季語は「涼し」で夏。おそらく暑さの中に訪れる涼しさや生活の工夫によって得られた涼しさをありがたがったのだろう。
 『惑溺Ⅱ』の中で一番好きな句。確かに「サイリウム」の光は蛍光灯やLEDとも違う、不思議と惹きつけられるものがある。ライブ会場というより外だろう。「パキッ」という音とともに訪れる光と「涼し」さ。「サイリウム」の魔法にかかったようだ。

だんだんと怒れる人の裸かな
 季語は「裸」で夏。
 「着膨れ」が滑稽さを出す冬の季語としてよく使われるが、「裸」でも同じ事ができたとは。「だんだんと」ヒートアップしていくけれど、その「人」は「裸」なんだよなあ、という。家族を叱っているよりも電話越しに誰かに怒っている方が個人的には面白い。

あをきふむしづかなくしやみしてをりぬ
 季語は「あをきふむ」で春。「あをき」は春の青草のことで、暖かくなり外で遊びやすくなった喜びが出ている。 
 「しづか」に「くしやみ」をするということは他人を気遣ってのことだろう。それだけで相手との距離感が見えてくる。「しづかなくしやみ」以外にも細やかな気遣いに溢れているに違いない。

浸けてゐる障子のまへに座りけり
 季語は「障子」なのだが、作者は冬ではなく「障子貼る」に近接するものとして秋に分類している。
 「座りけり」と書きつつ「座」らされたような。私が知る限り紙漉きは立って行われていたから、「座」ったということは「浸けてゐる障子」にそうさせるほどのパワーがあったのではと思ってしまう。正体が不明なままに、畏れるしかない何か。

 作品を通して湖と恋がよく読まれている印象だった。特に恋は直接「恋」という言葉を使っていてもいなくても、俳句として適切な形に収まっていた。思いが溢れてしまったりできるだけ語ろうとしてしまったりと、恋を俳句にするには見極めや自制心が必要だと考えているがそれが高度になされていた。
 散文もたっぷり19ページあり、高浜虚子の『五百句』や波多野爽波の『青』の鑑賞が16ページ、みんな大好き恋の近況が3ページ。「結社の主催というのは、いったいどれほど元気なのだろう。」と驚いていたが著者も大概である。ゲストによる前号評、俳句、短歌、川柳が続き、さらには俳句未経験の友達二人(+経験者一人)とやった句会の記録も載っている。やりすぎでは。
 惑溺の名に違わない作品集であった。ほとばしるほどの熱量を、作品、散文、人脈、そのすべてから窺うことが出来た。3号、4号と彼女がどんな作品集を編んでくれるのか、非常に楽しみである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?