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俳句と呼び得る領域について

 自身の創造性の受け皿を無条件に俳句と呼ぶことは暴力的である。
 2024年1月、俳句結社「楽園」にて第2回楽園賞の発表があった。詳細は楽園の会誌が無料で読めるビジターになっていただくとして、受賞作に含まれる図形を用いた俳句と、ルビを活用した俳句を、私が既存の俳句とは区別したいということについて書きたいと思う。


堀田季何シェフの不親切な食卓

 受賞した小山桜子氏の「人で無し」には図形を用いた俳句が二句。奥村京水氏の「うみをとじる」は全句にルビが振られ、途中からルビが一人歩きする形式になっている。私がそれらを俳句だと思わないのは、「カレーだと言われたのに出てきたのが寿司だったらもやもやする」という一言につきる。厳しい修行を終えたシェフの最高のカレーが、酢飯に山葵と鮪の刺身を乗せたものだったらどう思うだろうか。
 「寿司を出すなら寿司と言ってほしい」と書いて言いたいことが終わってしまうことに悩み、執筆が難航していたのだが、『美学への招待 増補版』を読んだ私は閃いた。美学用語としての「解釈」と、その対立概念として私が急遽こさえた「俳句の快感情」を導入することによって、言葉にできずいたもやもやをかなり言語化出来ると。以下に使われる「解釈」は援用のために魔翻訳ないし拡大解釈されている可能性もあるので、より厳密に「解釈」について知りたい方は是非『美学への招待 増補版』を読まれたい。読者への親切心と学問への真摯さがこの上ないレベルで結実している。まだ第一章しか読んでいないが胸を張ってオススメできるものだ。
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「解釈」という魔法

 世界平和実現のために「美の無関心性」というものが注目されていた。利害関係を度外視し、既存の概念に囚われず、虚心に対象を見て、快感情のみによって対象の価値を測る、という芸術鑑賞の態度をそう呼ぶ。人々が利益を求め闘争する世の中にあって、芸術の中ではみな他人に共感することができた。利害関係を度外視し、既存の概念に囚われない「美の無関心性」は、世界平和実現の教科書になり得るものだった。
 しかし、それは芸術の鑑賞態度としては不十分だった。虚心に対象を見て、快感情のみによって、というのは果たして知的な行為なのだろうか。また、芸術が知的側面を強めていたこともあり、虚心に対象を見るのではなく知識や先入観を鑑賞態度に持ち込む「解釈」が誕生した。
 便器に名前を書いただけの現代アートをみなさんもご存知だろう。あれは「解釈」によって芸術と見做されていて、「美の無関心性」の前では芸術にはならない。便器も、ダクトテープが貼られたバナナも、床に置かれた眼鏡も、「解釈」によって芸術にさせられている。

第2回楽園賞受賞作を「解釈」する

 では小山桜子氏の作品から見ていこう。

 便宜上、同心円を用いた作品を「鰯の句」、次に紹介するあみだくじを用いた作品を「線上の句」と呼ぶ。
 鰯の句の上部は黒地に白い文字で英語が使われている。そこからまっすぐに矢印が降ろされ、下部の三つの同心円の真ん中の円に行き着く。三つの円は内側に行くにつれてトーンが濃くなり、真ん中の円の中には〈「いきんさい!」/獣になって/逃げたんよ〉と書かれている。
 同心円の構造と内側に行くにつれてトーンが濃くなってゆくことから、鰯の句の下部はより深奥にあるもの、という印象を抱かせる。つまり、「いきんさい!」は作中主体の心の裡にある言葉と言えそうだ。そして天動説時代のキリスト教圏においては、災いが降りかかるのは地球が宇宙の中心(底)にあるからだと説明されていた。あらゆるものは下に向かって落ちていく。地球によくないものが溢れているのはそのためであると。つまり、"Small sacrifice"は作中の支配的なものであり、作中主体の心の裡を形成するものでもあった。トーンが濃ければ濃いほど深奥にあるもの、根源にあるものを意味している。
 さらに上部が英語であるのは英語が今日地球上で広く使われている言語に由来する。水村美苗著『日本語が亡びるとき』によれば、国語は広く使われる言語がローカライズされて生まれる、と。ヨーロッパ圏においてはギリシャ語やラテン語、日本では中国語がそれぞれローカライズされ、その国独自の言語や文化を持つに至った。現代において最も広く使われている言語は英語であり、英語をローカライズすることで新たな国語が生まれている。支配的な英語の影響下に日本語があることを、鰯の句はまた示している。

 続いて線上の句。あみだくじのように引かれている罫線はそれぞれの人生を表す。ある人は女性から男性へ、ある人は男性から女性へ、そしてまたある人は女性のまま、それぞれの人生を送っている。線に沿って書かれた〈線上のアリアかなしも神の旅〉の「線上のアリア」は「G線上のアリア」のことであろう。「かなし」は素晴らしいの意、「も」は詠嘆である。罫線は人生であると同時にそれぞれの変身/不変の過程でもある。
 ところで、この変身は果たして幸福なものなのであろうか。女性から男性になる人の人生には「神の旅」しか見えないし、男性から女性になる人の人生には「線上の」しか見えない。〈線上のアリアかなしも神の旅〉のすべてが見えるのは女性のままの人生である。肉体と精神のギャップに違和感を覚え性転換手術を受ける人もいるが、彼らは(少なくとも作中において)〈線上のアリアかなしも神の旅〉のすべてに触れることはない。望んだ体を手に入れて、触れられたはずのものに半端にしか触れることができない。幸せは自ら手に入れるものなのか、転がってくるものなのか。死ぬまで答え合わせはできない。

 続いて奥村京水氏の作品。掲載したのは連作の二句目から四句目。一句目は通常通り(ただし平仮名にも)ルビが振られ、五句目以降は四句目と同じく短詩のような、語りかけのような、モノローグのようなものが挙句まで続いていく。
 一句目と二句目(掲句右)はこの連作の読書体験のイントロである。それまで句に従っていたルビが、自我を得て語りかけてくる体験の導入。三句目(掲句中央)に振られたルビは「君の脳に棲んで読み方決めてるよ僕に逆らうことは出来ない」と閉じることができる。もちろん、ぎなた読みも誤変換も可能だ(黄美濃の海胆澄んでよ/味方極めてるよ/ぼく仁坂ラウコと派手畿内)。そして句には「小児の脳」が登場する。「ぼく」は作中主体や読者が幼い頃からいた存在かもしれないし、ルビが自我を得ている今、現れたのかもしれない。
 四句目(掲句左)、ルビの誤変換が思いのほか楽しいので書かせてほしい。「大限会費らいて揉む打撲はボククル節似た駄波句だけ行く」このように誤変換を考えることも「解釈」に含まれよう。私はいたって真面目にこの句を「解釈」している。
 「大言海開いても無駄ぼくはぼく踝にただ波砕けゆく」としたとき、作中で「憎」まれている「君」はルビにある「ぼく」だろう。「海」と陸のぎりぎりのところで作中主体(ないし読者)に干渉し続けている。
 これらのルビは世界の拡張に成功している。ルビの振られていない「波打ち際」の句における「君」は作中主体に「憎」まれているだけの「君」である。作中主体と「君」の関係は友達であるかもしれないし、恋人であるかもしれないし、作中主体は自分の心を汲んでくれない「君」を「憎」んでいるのかもしれないし、いつも眩しい側にいる「君」に嫉妬して「憎」んでいるのかもしれない。それは読者がそれぞれ鑑賞したいように鑑賞すればいいのだが、「脳の中に棲み着いて語りかけてくる奴がいて、そいつが波打ち際にいて……」というのは明らかに読み過ぎである。句会でそう感想を述べようものなら「だいぶ暴走した鑑賞をする人なんだな」と思われるに違いない。読み過ぎの領域にあるものを、ルビが語り続けるという手法で鑑賞可能にした。

俳句の快感情

 さて、以上のように「解釈」してきたが、私は彼らの作品をまったく俳句だとは思わない。そのことを語るには、私が何を俳句だと感じるのかをはっきり書かなければならないだろう。私は私に俳句だと感じさせるそれを「俳句の快感情」と呼ぶことにする。

サイリウム折つて涼しくなりにけり     舘野まひろ*1
雲を見るほかなく角の伐られけり        岩田奎*2
陽の柔わら歩ききれない遠い家        金子兜太*3
凡そ天下に去来ほどの小さき墓に参りけり   高浜虚子*4

 俳句の快感情が具体的にどんなものなのか、どんな種類があるか、どこまでの範疇なのか、それらを詳らかにするには膨大な時間と内省を要する。ひとまず、ここでは直感的な俳句の快感情の条件を記述するに留めるとして、詳細なものは別の機会に書くことにする。
 俳句の快感情の条件は
①虚心に鑑賞できること
②思考よりも快さが先にやってくること
 この二つを満たしている必要があると考えられる。
 俳句は季語に関する知識、切字や切れに関する知識、二物衝撃という理論が備わっていなければ、ほとんどの作品は鑑賞することも敵わない。知識を要するという点でいえば「解釈」と同じなのであるが、多くの読者が求めているのは「解釈」による思考の駆動ではなく、描かれている光景が美しいとか、作中主体の五感を鮮烈に追体験できるといった快さである。
 サイリウムを折った瞬間に訪れる涼しさ、角が伐られるまでの緩慢とした時空間、柔らかい日差しが降り注ぐ中での遙かな家路、歴史と敬意がぎゅっと詰まった小さな墓。それらは知識が駆動するよりも先に、快感情となって我々の脳を喜ばせる。俳句の快感情の前には、季語の有無、音数の長短は些細な問題である。

出典
 *1『惑溺Ⅱ』
 *2『膚』
 *3『海程』に発表されたとのことだが一次情報には当たれず
    絶筆九句として知られ各種メディアで読むことができる
 *4「高濱虚子の100句を読む」第11回

荒野の砂金

 私が第2回楽園賞受賞作を読んで感じた違和感は、まさに現代アートのそれに通じる。一般的な人々は美を求めて美術館を訪れるが、芸術家は「解釈」に重きを置いていて美しいかどうかは重要ではない。そのことを知らない人々はよく分からないという感想を抱いて美術館をあとにする。
 俳句の快感情を求めていた私は、「解釈」を多分に要求する句に出会い、大いに困惑した。元より「解釈」を要するものであると宣言されていれば生まれなかった混乱は、まだ名前の付いていない形式の作品と俳句を区別することなく発表したために生まれたのである。

 ここまで書いて作者本人が作品を俳句と自認していなければ、私は無駄に挑発的で空回りした文章を書いていたことになる。「第二回楽園賞 受賞のことば」からコメントを引用しよう。

 過去の句会や楽園実験室の実験の際、俳句とは何か、という問に何度も衝突しました。あるいは何人かの、こんなもの俳句ではない、という静かな怒りに会ってきました。
 俳句はルールと、ルールによって定義されるもの(俳句自身)が相互作用を与え続けて逐次変化する循環的な、自己言及的な関数だと思います
(中略)
 僕はあらゆる「物語」というのはさまざまな現実世界に振られるルビだと考えています。
(中略)
 ルビというよりも広い意味での翻訳に近い考えかもしれません。
 もちろん俳句も「物語」に含まれていて、現実世界にふられる自由奔放なルビだと考えています。(ん?よんだ?おひさしぶり。え?よんでない?)
※筆者註カッコ内ルビ

『文字禍』奥村京水

 京水氏はこのように語っているのだが、桜子氏は俳句を作っていると明確に読み取れる文章がなかった。強いて言えばこれ。

 楽園に堕ちるまでの私は「N◯K俳句」や「プレバト!!」を時折拝見し楽しんでいた善良な市民でした。
(中略)
 楽園にしばらく入院させていただいて分かったのは、堀田季何主宰は陰陽道に精通されており、私のようなあんぽんたんがテレビで見かけた作品を真似て作った句は、どうやら結界に弾かれてしまうらしいということでした。

『イヴの万華鏡』小山桜子

 以前お会いしたときに「俳句のことよくわかってなくて」と仰っていたので、どこまで俳句を作っている意識なのかはわからない。俳句の快感情よりも主宰の結界を破ることに重きを置いている。
 俳句の現状の傾向を強めていった結果生まれたものであったり、社会や俳壇からの要求によって生まれた作品であったりすれば、彼らの作品を俳句と呼ぶことには何の問題もないだろう。しかしそうではない。彼らの作品は彼らの内なる要求によって生まれてきたものである。少なくとも、彼らの作品を俳句と位置づける社会的意義はない。
 ただし、それは瞬間的に見て、の話である。彼らが俳句を自認する限り、既存の俳句と彼らの作品を繋ぐ何かしらがあるはずである。私が俳句らしさを俳句の快感情に見いだしたように、彼らは別の要素に俳句らしさを見いだしているかもしれない。その何かしらを探求していくことは俳句にとって大きな意味を持つ。
 このとき最も恐ろしいのが、自身の創造性の受け皿を俳句と呼んでいる場合だ。俳句がどのようなものであるかは問題視されず、目から飛び込んでくる情報を「解釈」できる限り俳句と呼んで憚らない。私がどれほど他ジャンルから表現や理論を学び、私と彼らの抱く俳句らしさをぶつけようと望んでも、「これが俳句です」の一言ですべて終わってしまう。ぶつかり合う中で見えてくる共通点や絶対に譲れないものが、俳句ひいては詩をより深く考える契機を生み出すのに、それを拒絶されてしまう。価値観の闘争から生まれる美しい火花を私は望んでいる。もちろんステゴロではなくプロレスであることが前提として。

 「これは俳句でない」という評価は「読むに値しない」という意味で捉えられがちである。私も特に前置きなどがなければそう理解してしまう。しかし彼らの作品は名前のついていない、寂しく暗い荒野の中にあってもその価値を失わない。俳句という枠組みが消えてしまえばそのまま歴史の波に消えてしまうような作品よりも、よっぽど輝いている。
 侃々諤々、喧々囂々。その格闘の末に、一粒の砂金を発見できることを、私は楽しみにしている。


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