不死身の航空兵だった父
石巻市中里・片岡さん 手記で伝える記憶
石巻市中里で喫茶店を営む片岡多美子さん(77)の父・伊藤平吾さん(平成3年に71歳で病死)は、かつて日本軍横須賀海軍航空隊に所属。計37回の空中戦で戦果を挙げ〝不死身の航空兵〟として海軍少尉にまで上りつめた。戦後、自身の生い立ちや壮絶な戦争体験を書き残しており、長女の片岡さんがこれを一冊にまとめた。片岡さんは「平和と自由の世に生きる私たちは戦争の教訓を忘れないよう、後世に伝えるのが責務」と語った。
伊藤さんは大正9年、稲井村で生まれた。高等小(現・中学校)卒業後、大阪での奉公を経て昭和12年に横須賀海兵団に志願入団。13年に横須賀海軍航空隊員、14年に木更津航空隊員として九六式陸上攻撃機に乗り、支那事変(日中戦争)を経験。16年には鹿屋航空隊で雷撃訓練を積み、マレー沖海戦(12月10日)では英国戦艦を沈めた。
終戦まで参加した作戦は計137回、空中戦37回、飛行時間4500時間。敵機の攻撃などで7度の不時着があったが、五体満足で帰還。最後は教官を務め、終戦を迎えた。
手記には航空兵を志した幼少期や訓練兵時代の思い出、敵機に撃たれ、次々に散った同期生への思いがつづられている。戦地の苛烈な状況も記し、大戦が激化する前の硫黄島に実戦隊として派遣(昭和19年)され、米国軍の機銃襲撃を受けた際の記述では「防空壕の10㍍程上の山に、飛行服を着て二等曹のマークを付けた搭乗員が倒れていた。誰だろうと気を配ったが、首から上がどこへ飛ばされたのか、無いのである」と生々しい描写もある。
昭和天皇による終戦の玉音放送が行われた後、「日本は敗れることはない、戦いはこれからである。我らに続いて仇敵を撃たん」との趣旨でチラシを横須賀市内に散布。敗戦という失意で腹を切る隊員もいる中、伊藤さんはたぎる思いを胸に敵軍に体当たりで自爆する準備を整えていたという。
手記はここで途絶えており、伊藤さんがどういう経緯で自爆せず帰郷できたのかは今も分かっていない。手記は昭和60年に執筆されたもので、前書きに「あの悲惨な戦争の事は霧の中に深く包まれ、命を御国のためとばかり捧げ散って逝った戦友の尊い魂までが忘れ去られる気がしてならない。これを後世に伝えられる者が少なくなった」と筆を執った理由が記されている。
戦後、伊藤さんは稲井で電器具販売業を営み、片岡さんら家族を養った。国の恩給は「散った戦友のおかげで生きているだけだから」と一度も受け取らず、まちで五体満足でない傷痍軍人を見かければ、親切に対応したという。
片岡さんは「無事に古里に戻れた経緯や心境など手記にない部分を聞きたかった」と悔やむ。「私を含め、戦争を知らない世代が大多数の現代。だからこそ、せめて終戦の日ぐらいは、子どもも大人も戦争のことを学び、思いをはせる日にすべきでは」と投げかけた。
【山口紘史】