見出し画像

沼津で戦った安倍貞任と源義家の伝説

仙台藩が安永年間(1772―1781年)に村単位で提出させた安永風土記御用書出には、男女別の人口や村の広さをはじめ、地名の由来や特産品、名所など現代に通じる「地域自慢」が記録されている。石巻地方の風土記には前九年合戦(前九年の役)で争った「安倍貞任」と「源義家」に関する伝承が多数記述されている。今回は、約250年前の先人たちが書き残してくれた史料を元に2人に由来する場所を探検する。(石森洋史)

◆前九年・後三年の合戦とは

前九年合戦(1056―1062年)は陸奥守・鎮守府将軍の源頼義とその子、義家(通称・八幡太郎義家)が岩手の奥六郡で勢威をふるっていた豪族・安倍頼時・貞任の一族を討伐した戦役だ。
後三年合戦(1083―1087年)は、安倍氏の後を受けて同郡を領有していた清原氏の一族の戦乱に、義家が介入して平定した合戦。源氏が東国に勢力を築く契機となった戦とされる。

本紙では以前、前九年合戦で源頼義らに討伐された安倍氏一族のうち一部が逃れて落ち延びた、その最南端が石巻地方であったと考えられることを掲載。現在「あべ」を名乗るのは一族の子孫で、広く石巻地方にも戦役の影響が及んでいたと考えられることも紹介した。(2019年6月14日掲載)


◆鶴子坂館と京ケ森館

沼津村風土記によれば、貞任と義家がそれぞれこの地に城(館)を築き、争ったという。これに裏付けるように、地元では貞任と義家の戦いを巡る伝承が残る。

義家側の弓矢は敵の山の上まで届かなかったが、貞任側の矢は麓の義家のところまで勢いよく飛んできて、義家側は負けそうになった。その時、楯石という石がむくむくと大きくなり、貞任側の矢を防いでくれたのだという。(石巻の歴史第七巻考古編資料編1)

義家の古館があったのはは沼津貝塚西側の低い丘陵で、山の形が鶴に似ているので鶴子坂館または鶴館とも呼ぶようだ。

【写真1】義家が館を構えたとされる鶴館

義家が館を構えたとされる丘陵


さらに向かいの沼津・真野・沢田にわたる京ケ森(京ケ森館)が、貞任の立てこもった城だと伝えている。

【写真2】安倍貞任が立てこもったとされる京ヶ森

貞任が立てこもったとされる京ヶ森

◆大蛇の子だった安倍貞任

女川町と接する石巻市沢田志の畑(苔浦)には、安倍貞任の出生に関する伝説が残っている。

【写真4】安倍貞任が大蛇の母から生まれたという伝説が残る石巻市志の畑

志の畑には大蛇の母から生まれたという伝説が残る

沢田村風土記によれば、苔浦在住の猟師が鹿を待っていると、湿地の中に美しい女性が現れ、見初めて結婚をした。女性がめでたく懐妊し出産間近になると、新しい産家を建てることになった。すると女性は猟師に「100日の間は絶対に産家を見に来てはならない」と言い、約束をさせた。

猟師は、20日間は約束を守っていたが、21日目に不安になって見にいったところ、女性は大蛇になって、生まれた子どもをかわいがっていた。

猟師は大いに驚き、大蛇は逃れて行方知れずになってしまった。この大蛇が鱗を落としたことから昔は「鱗(こけら)浦」と呼んだのが「苔(コケ)の浦」と変わったと伝えている。

【写真3】石巻市志の畑にある苔浦バス停

石巻市沢田志の畑にある苔浦バス停

この大蛇の生んだ子が成長して安倍貞任になった。大蛇から直接教えられたという薬があり、切り傷、打ち身、骨つぎの妙薬である。しかし、苔浦の住人が他の村でこの薬を調合しても、一向に効き目をあらわさないものだったという。

◆伝説に込めた思い

貞任と義家に関わる地名は桃生町、河北町、女川町、東松島市矢本にもあり、安永風土記にその由来が記録されている。

前九年合戦の主役であった安倍氏の同族であるという先人たちの意識や思いを背景に、安倍氏の子孫が集団化して暮らすとされる当地方だからこそ、このような伝承が数多く残されたと考えられる

武門の棟梁として源家を開いた八幡太郎義家は、武勇の誉れ高い英雄として権威の象徴であったこともあり、2人に由来する地名が書き記されたと思われる。

【参考文献】
・ 石巻の歴史第一巻・第七巻・第九巻
・ 稲井町史

最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。