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石巻市中央周辺 江戸期のまち散歩

「まちに買い物に行く」「まちに出かける」――
地域に残る中心市街地の「まち意識」。人や物が行き交い地域の経済や生活を支えてきた「石巻のまち」は、どのように形成されてきたのだろうか。

地名の由来を紹介する本連載。前回は地名の由来や町の発展とともに、それまで地域の中心だった湊と区別して石巻と呼ぶようになった経緯などを取りあげました。今回は、中世後期のにぎわう港町を描いた「石巻絵図」(東北大学付属図書館所蔵)を用いて、町場がどのように形作られていたかを紹介します。天保10年(1839年)頃の町並みと推察される絵図には石巻、門脇、湊の3カ村と石巻村に接する蛇田村の蛇田町が描かれており、代官屋や御札場、藩主が泊まった御仮屋など仙台藩の主要施設も見えます。河岸には蔵や多くの船が並び物流の拠点として、にぎわったであろう〝まち〟の姿が読み取れます。

◆発展した町の統治

仙台藩では町政、訴訟を司る「町奉行」の管轄下に置かれた仙台城下の町人町だけが行政上の町場とされていました。

石巻・白石・水沢(岩手県)など実質的に都市である地区であっても、農村同様に「郡奉行」の管轄下に置かれたので、行政的には「村」として支配されました。しかし、石巻は蔵入地と呼ばれる藩の直轄地と川村孫兵衛の様な給人に与えられた知行地が複雑に配置され支配されていました。

当時の町の様子を書いた安永風土記(1773年)には石巻村は宿場の石巻町(本町、中町、横町、裏町)と新田町で構成されると記述があります。

牡鹿郡萬御改書上(1698年)によれば周囲には、端郷住吉の住吉町(本町、新町)と蛇田村の蛇田町があると記録されています。石巻町、住吉町、蛇田町(現・旭町)で事実上、1つの町場を形成していました。

この頃には北上川の河岸通りに石巻町の本町・中町、住吉町の本町と町場が続き、その奥に並列するように石巻町の横町・裏町、住吉町の新町、蛇田村の蛇田町が配置され町場が拡大していきました。

次にそれぞれの町について細かく見ていきます。

石巻絵図

石卷繪圖 全景図

絵図左

石卷繪圖 左図

絵図右

石卷繪圖 右図
石卷繪圖 東北大学附属図書館所蔵(NPO法人石巻アーカイブ協力)

◆石巻の中心のまち 本町(現・中央一丁目)

石巻町で最初に開かれた街区。壽福寺(羽黒町)には石巻の開港を藩に進言した葛西浪人の米谷喜兵衛が本町に住み、開発したとされる町立の記録が残ります。そのため、「米谷喜兵衛町」とも呼ばれました。

本町

本町には石巻の重要な公的施設が並びました(石卷繪圖部分図)

地名を探検まちなか編 (36)

中央一丁目にある本町の石柱

本町には石巻町の中心であることを示す「石巻札場」が設けられていました。札場とは、幕府や藩の通達を告示する場所のことで、現在の割烹滝川(中央1丁目)周辺に設置されていました。絵図には「御札場」と記され、札場の絵が描かれています。石巻町から各地への道筋や距離はこの札場を起点として示され、地元民だけでなく、旅の人々も集う、石巻の中心でした。

【写真・滝川さん】中央1丁目の割烹滝川周辺が石巻の起点だった

中央1丁目の割烹滝川周辺が石巻の起点だった

本町の中心部には藩の「米蔵」が並びます。中町寄りには主に鋳銭場の検査等をする管理役人の旅宿「御金改方旅宿」があります。本町の南に接する門脇町の上町には、各藩の米蔵に付設する南部会所、一関会所が見えます。

石巻市中央1丁目

本町の裏に当たる裏町には藩主が石巻に出馬の際に休泊する施設「御仮屋」がありました。石巻の重要な公的施設が本町地区を中心に設置されていました。

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