幸福な猫

その猫は道端で生まれた。
正しい日はわからぬが、
5月の半ば頃だった。


生まれてまだ間もない頃、
猫は親に捨てられた。
親猫の育児放棄は
何も珍しい話ではない。


生後間もなくして、
猫は人の手に引き取られた。
行先は動物病院だった。


猫は小さなケージの中で過ごした。
発育の良かった猫にとって
それは少し窮屈だったらしい。


月に数回、
ゲージから出して遊んでもらえた。


体格の良かった猫は
いつも一人で過ごした。
大きい猫は
周りから恐れられるのだ。


ある日、
猫は若い男女に
引き取られた。

生まれてから
3年と少し経ったあとだった。



生まれてからほとんど
小さな檻の世界しか知らない猫にとって
連れてこられたアパートは
ずいぶん広い世界に思えたらしい。


猫は人が好きだった。
野生を知る前に
引き取られたので
人には幾分慣れている。


猫は肉親を知らない。
だから人を親だと思っていた。
いや、親ではないかもしれないが
少なくとも他の猫よりも
人間なら安心できた。


猫はいつも人の横にいた。
猫は孤独なんていうけど、
そんなの嘘。
いつも人の横にいることを
何よりの幸福と思っていた。



あるとき、
猫は食欲がなくなった。
いつも食べていたご飯が
喉を通らない。


そういえば
何だか変な感じだ。


暑くもないのに
妙にのどが渇く。


猫はそれから
少しずつ小さくなっていった。


あんなに大きくて
ふくよかだった体は
次第に細くなっていった。


0.5キロ落ちたときは
気のせいだと思った。


でもそれから
1キロ、2キロと落ちていき
そのうち皮と骨ばかりになった。


そのころは
起き上がるのがやっとで
飯も食わず、
ちびちび水を飲みながら
寝るだけの毎日になった。


それでも猫は
毎日飼い主に会うのが
楽しみでならなかった。



そういえば猫は
交尾の経験も
外に出て遊んだことも
他の猫と遊んだこともなかった。


猫はもしかすると、
人に会う以外の
楽しみを知らないのかもしれない。


猫に人語はわからない。


それでも
毎日顔を合わせるこの人は
毎日ご飯をくれたこの人は
毎日撫でてくれたこの人は


きっと・・・



寒さ厳しい
12月のことだった。


この猫にとって
7回目の冬だ。


もう猫は息をすること
以外は何もしない。


今日、
猫は病院に連れていかれた。


そしてまた
いつもの部屋に
一緒に帰ってきた。


大好きな人が
何だか悲しそうな眼をしていた。


それに目に光るものがあった。
猫はそれが何だか
分からなかった。


猫は苦しかっただろう。
いや
痛かったかもしれないし
気持ちわるかったかもしれない。


それでも猫の顔は
いつものように
細い目で
悲しむ顔を眺めていた。


この人はなにを思い、
何を考えているのか
分からなかった。


でも、
なんとなく、
そばにいることが
いちばん良いように思えた。



夜のとばりがおりて
街が静かに眠るころ


人の手は
ボロボロになった毛を
包み込むように
撫でている。



猫には
それが一番
幸福だった。

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