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薪をくべる

生かされてきたなぁと思う。
人に恵まれてきたなぁと思う。
そんな2020年夏。
ふぅ…。

会いたい人には会いに行く、知りたいことは調べに行く(話を聞きに行く)、そうやって動き回ってきた日々だったな、3月までの自分を振り返ってそう思う。

それは今、行動範囲が狭まっていることに鬱々としているからかもしれない。
なんとなくの不調や、やる気のなさみたいなものも、この不自由さからきているのだと感じてた。
会えなくたってその人は生きているし、話は文字でもオンラインでも聞くことができる。
でもその日のお互いの熱量を肌で感じることはできないし、その場の空気が動く瞬間を感じることはとても難しい。
肌感、皮膚感覚、結局私はそういうものを求めて動き回っていたのだろう。

この数ヶ月、そんな感覚的なものに飢え続けてきた。
人恋しいの一言では納得できない、この気持ち。
なんだろうなんだろう、言葉にできなくてモヤモヤしてた。
そのモヤモヤは部屋中に漂って、身体中に纏わりついて、私はいつもそのモヤモヤのモヤ越しに外界を見ていた。

人に恵まれて、いつも支えられてきた。
調子がいい時も悪い時も、いつも誰かが私の火を絶やさぬように薪をくべてくれていた。
言葉の熱量や、触れる優しさや、包み込む雰囲気や、それら全てで。
誰かが薪をくべて、誰かが新鮮な空気を吹き込んで、だからいつも私の「火」は絶え間なく燃え続けてきたのだ。
うっすらと気づいていたのに、こんなにも感謝することがなかった。
当たり前のことでは決してなかったのに。

いつの間に自分自身に薪をくべることすらできなくなってしまったんだろう。

今まで誰かがやってくれたその作業。
慣れない私が急に取り組んだところで、プスプスと燻ってモヤだけが充満していくだけ。
チロチロと、メラメラと、緩急はあれどいつも消えずにいたあの火は、どうやって燃え続けてきたんだろう。
たくさんの人たちに火を繋いでもらってきたけれど、私は誰かの日々に薪をくべたことはあっただろうか。


「私の人生、一瞬でも出会えた人たちに、そっと薪をくべる人になる」
「たくさんの人が繋いでくれたこの火は決して絶やさない」

モヤモヤのモヤに小さな火をやっと立ち上げることができたのは、ほんの数日前のこと。
数年前、恩師や友人たちと囲んだ焚火の画像が偶然目に入ってきたから。
偶然じゃないか。
それが薪をくべるサインだった。

薪をくべる、火を絶やさないって、生きるを繋いでいくことなんだろうなぁ。


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