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茹で汁も飲みもの

もったいないという言葉は母の口癖で、小さな頃から耳タコどころか、耳筋がつく程に言われ続けてきた言葉。
戦後の食糧難の名残の中、幼少期を過ごしてきた母に育てられた私。
実家で暮らしていた22年間で、沢山のもったいない基準が出来上がっていました。

例えば「食」について。
田舎で育った私ですが、農家が嫌で企業に就職した父だったので、我が家には畑がありませんでした。
ご存知の通り、野菜には旬があります。
ある時期にはキャベツが、ある時期にはじゃがいもが、多くの畑で収穫されます。ご近所さんの多くは、兼業農家or祖父母が趣味で畑をしているので、我が家は恰好の「豊富に穫れた野菜配布先」でした。
(農家同士はお互いの畑で何が育っているかを知っているので、かぶるものはもちろんお裾分けしないのです)
我が家は季節ごとに、旬の野菜が食べきれないほど届くという素晴らしい日常がありました。
ありがたいことにそれは今でも続いているのですが…。

さて、先日実家に帰った際、真っ白カチカチになった白菜が新聞紙に包まれておいてありました。
聞けば、10個以上届けられた白菜の最後のひと玉だそうで。
持ち帰る?と言われてうーんと唸った私に、「クタクタに煮ればまだ食べられるよ」と母。
10個もどうやって食べきったの?と聞くと、都心に住む親戚に送ったり(白菜の価格よりはるかに高い送料で)、漬物にしたり、干してカサを減らして食べたり。
母は知恵と工夫と時間をフルに稼働して、白菜を食べ切ることに注力していたのです。
母には捨てるという選択肢なんて、はなからなかったのです。

母から教わったこと、色々忘れてしまっていたな…と反省しきりの帰り道。
思い出したのは、先月アシスタントをした大好きなイタリアン料理家さんの言葉でした。

「茹で汁はスープにするから、パスタだけ取り出しておいてね」

低温乾燥でつくられた古代小麦のパスタを茹でていた私に、当たり前のように発せられた言葉。
でもそれはきっと、誰もの当たり前ではありません。
パスタの茹で汁は、蕎麦湯と一緒。
美味しい小麦の味が溶け出した、濃厚なスープです。だし汁でもあり、ポタージュでもあるのだから、捨てるなんてそれはそれはもったいないことなのです。
(どんな素材でどんな過程でつくられたものなのかは重要な問題ですが)
茹で汁は飲みもの!
ふとした言葉で、ますますその先生のことを好きになってしまったのは言うまでもありません。

どこまで食べるのか、どこまで食べられるのか。
それって幼少期の体験に大きく左右されると思います。
もったいないの定義も人それぞれだし、もったいないという発想があるかないかすらも人それぞれ。
食事に関していえば、ご両親が素材をどんなふうに扱ってきたのか、調理過程で出るものをどう処理していたのか、残ってしまったものはどうしていたのか。
日常の一コマの蓄積が、私という人間の「食べるの当たり前」をつくってきたのです。

じゃあ、一度身についてしまった当たり前は変えられないの?といえば、そうではないというのがいいところ。
書き換えることもできるし、思い出すこともできます。

今、コロナウイルスのことで世界中が不安を抱えています。
でもそんな今こそ、当たり前を見直す機会なんじゃないかなって思うんです。
働くということについて、お金との関係について、この先の生き方について、そして食べるということについても。

いつまでも全てを湯水のように使い続けることはできません。
湯水だって当たり前のものじゃない。
食料問題について少しでも調べてみたら、現状の食べ方は地球の限界をとうに超えているのだと分かります。
限りある中で豊かに暮らす。限りあるもので暮らす豊かさ。
蕎麦の茹で汁に味噌を溶いたスープを飲みながら考えています。

ゼロから1をつくり出すことだけがアイデアじゃない、クリエイティブじゃない。
あるものを最大限につかいきる、味わいきる人もまた最高のアーティスト。
これからの新しい時代は、一人一人が最高のアーティストであるように。
私も頑張ろう。



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