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間のおはなし

以前アロマテラピーの学校に通っていた頃、
『皮膚は自分と自分以外の世界との境界線』
と先生がおっしゃった。
その言葉がずっとずっと残っている。

決して融合することのない皮膚。
でも触れることで、距離を縮めることはできる。
『肌が合わない』
とはよく言ったものだなぁ。
自分を守る最後の砦を犯すものに、違和感や嫌悪感を持つのは、ある意味生命維持に必要な感覚なのだと思う。
心地よさも心地悪さも、もしかしたら身体中皮膚に張り巡らされたレーザーで、一瞬一瞬感じ取って私たちを動かしているのかもしれない。

そんなことは普段からよく考えていたから、今夜のお話会ではメモをとる手が止まらなかった。

文化人類学者で、お世話になっているゆっくり小学校校長の辻信一さんと、小説家であり文芸評論家でもある高橋源一郎さんの、公開対談。

テーマは『雑からあいだへ』。二人が考える『間』とは。

例えば、家。自分の日常と社会との間にあるもの。
例えば、庭。小さな生態系。小さな宇宙。私たち人間と宇宙との間にある世界。
例えば文化。過去の民主主義と未来の民主主義からなるもの。今という間。

「間」を使うとき、「AとBの間」というけれど、AとBは常に平行ではない。
A>Bの場合もあるし、A<Bの場合もあるし、A vs Bだってある。
間=関係性って言えるのかもしれない。

肌が私という存在と、私以外の存在の間にあること。
その薄い薄い間ですら、あるのとないのでは世界が全く変わってしまう。
間があることで、存在を認識できる。
冒頭で書いた『肌という境界線」について、辻さんと高橋さんの話を聞いている間なんども思い出し考えていたのだけれど…。
途中で、ハッと気づいたことがあった。
間という言葉が含まれる、とても近い表現があるなぁって。

それは、「間合い」。
存在の距離を表すこともあるし、時間を表すこともあるし、人との関係性を表すこともあるこの言葉。

空間・時間・人間

全てに間を含む言葉。そして全ては間合いとも思える。

人と人の間に、時と時の間に、空(スペース)と空の間に。
存在する関係性が、私という存在を成り立たせている。

間をつくる、間をうめる、間を生きる。 

「間」というたった一文字について、辻さんと高橋さんが研究する。
そこには奥深く幅広く、過去と未来の間である今を知ることになるのだろう。
私にとっても「間」という一文字が、大きな存在となった夜。

近づくからこそ「間」の存在に気づくのだと思う。
だから知りたいと思ったこと、会いたいと思った人には、近づいていかないとね。
間合いを感じられる場所まで。

#とは


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