アンガージュマンの文学(サルトル)

したがって人間のあり方は、現在の状態からの自己解放であるとともに、まだ存在しない目的へ向かっての自己拘束(アンガージュマン)であると規定できる。

以下同様のサイトから引用、装飾。


サルトルの主張したこのようなアンガージュマンは、けっして狭い意味での政治行動や社会参加に限定されるものではなく、時代や状況に束縛されていながら同時に自由な存在でもある人間が自己を実現していく仕方のことであり、したがって、各人の責任を強調するきわめて倫理的な思想であった。しかもサルトルは徐々にマルクス主義を受け入れていったために、それに応じてアンガージュマンの概念もいっそうの広がりをもち、ついに歴史の全体性への参加、という意味すら帯びるに至った。

さらにこのアンガージュマンは、文学の創造に関しても指摘された。サルトルが第二次世界大戦前の作家たちの無責任性を厳しく追及して、同時代人のために書き、かつ同時代に責任を負っていくことこそ、ものを書く人間のあるべき姿であるとし、こうして「アンガージュマンの文学」を提唱したからである。しかしこの領域でも、彼は少しずつ狭い政治主義から脱して、作家が自分の独自性を深く掘り下げて全体と普遍に迫ることこそ、文学のアンガージュマンであると考えるようになった。
 こうした態度は、第二次世界大戦後から1960年代まで、単にフランスだけでなく、世界的に先進国の青年たちに訴えるものをもっていた。1960年代以後、アンガージュマンの流行はいったん終わったが、個と全体を同時にとらえようとしたこの試みの意義が失われたわけではない。


感想

先進国において3週遅れの日本の若き者よ

(主に、ひろゆき、批評家、理系バカ、文系バカ)

あなた方には、まだ滑らかな舌と喉と関節と皮膚がある。

その絶え間なき脈動、内臓の蠕動運動

眼球の虹彩、学習した読解力・推理力・教養

これらは世界から『譲り受けたもの』であり

社会から『託されたもの』だ。

ゆえに、譲るものになれ、託すものになれ。

決して、押付けるものになるな、任せるものになるな。

見てくれ、肩書きは同じでも、

気の持ちよう・言葉選び・魂の波形・脳の回路しだいで、あなたはあなたにもなり、あなたでもなくなる。


決して選べないものを自覚的に選ぶことで、

『受け入れ』の思考回路が培われる。

『排除』を旨とした都市で、その修行ができたら最強。

ぼくは排除を排除した『いなか』でフラフラやるよ

またね〜







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