〇がどこから来て、どこに行くのか。時空や観念に関するあらゆる命題の真髄がおわか。

パンデミックは生存バイアス

I=I   :=:  *-*

拝啓 今日までのあらゆる<私>へ

長かったと言えばそうだし、
短かったと言ったらウソになるけど、
長くもなく短くもなかった旅が気付かぬうちに終わった。

リライト 再編 立て直し 
釈放と投獄の繰り返し 
輪廻転生と解脱の永遠回帰への入滅

言葉までが物であり、

心までが物質であり、

反応までが機序であり、

終焉までが開始であり、

継承までが文化であり、

伝達までが内容であるとき、

縁起までが因果であり、因果までが縁起であるから、

どこへ行くにも来るにもどこであるということに変わりはない。

したがって、われわれ念処はいくら動いても動かない。

念処は固定でありながら、座標や座標軸や視点を変えているだけの、

多動的不動尊であり、この自覚さえも浮動するに事無し。

さて、どこにいこうか。

さて、いつにしようか。

置いて行こうか。連れて行こうか。

何を決めることができる。何が決まることができる。

生物ー動物ー植物ー無機物の違いは何かと言えば、

「予測しやすさ」であろうと思う。

動かないモノー揺れ動くモノー不規則に移ろうモノ

不規則さー先の読めなさー翻弄される感じー挑戦意欲

西洋人は挑み、縄文人は憩う。

憩うとは自らを初めから無機物と同列に扱いて万象と和すことであり、

挑むとは自らを省みずに有機物として始まり無機物に終わることである。


笑止千万


さて、次いで、問題や課題と和して憩おうか、

さて、次いで、問題や課題に挑んで濁そうか、


「立つ鳥跡を濁さず」と言えど、食い荒らして後に立つ。

「覆水盆に返らず」と言えど、待てば雨水が溜まる。

何があろうか、何もなかろう。

何もなかろうか、何かあろう。


神なる真の御言葉はシーソーの両側にあって動かず傾かず、

車軸の両輪を反対方向に回すことでクルクルとその場に真円を描くのみにして進まず、

トートロジーに遊び惚けて時を数えるのを忘れたり。


人や暦や物価の数が年々と進むことの奇異なるかな。

人の名利の畜生に違わざれば数えるに及ばず、

暦の年月の安泰たれば数えるにあたわず、

物の万物斉同なれば比べるに及ばず、

数の無意味なるかな。数の奇異なるかな。


どこもかしこもあれもこれもすべてはすでに私であるからして、

私の細胞に貴卑なし、優劣なし、甲乙なし。

数は番号にして、その高低を比べることなし。

身分は愛称にして、その主従に拘泥することなし。


エコーロコケーション

やまびこ

ブーメランの法則

返報性の法則


私は空気であり、距離であり、投擲具であり、法則である。


波紋は見た目上進めど、水面は上下に動くのみ。

物質は見た目上動けど、念処は何処に佇むのみ。

これでわかったか。

「私」は言葉である。

何の意味もない私の言葉に、意味をくれてありがとう。

そして、ごめんなさい。

あなたの心も無意味な私の一部であります。

ただ、私が無意味だからといって、

あらゆる部分のそれぞれが無意味であるとは言い切れない。

部分が部分であるからには、それぞれに異なる呪いや呼称があろう。


意味とは意味を編む意志であり、

編まれた意思が意味であるから、

意味に味があるうちは意味がある。

それを噛み締めて、たのしんでね。


敬具    

パールホワイト

〇  〇  〇

クルクル回るはトートロジーはトートロジーはクルクル回るわ



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