純粋さ・組合せ・背理法・意志

この世で最も稀有なもののひとつに「純粋さ」がある。
純粋さの手前には無限の不純が連なっており、
最初から最後まで純粋でない限り手が届かないのが「純粋さ」だ。

そのため、純粋に『やりたいことをやる』ためには、
「やっていることを続ける」より他になく、
無意識にさも当然に始められたこと、無為、
「無根の真意」を貫けというのだから無理な話だ。

しかし、「純粋に・無理」ということもまた稀有だから、
そこまで難しい話でもないのだろう。


あらゆる「もの」は組合った状態でのみ認識される。

「純粋な・もの」とは「言葉」であり、
「主体+もの」が「もの」なのだ。
ここでは「主体+」(主観)が変換されて「あらゆる(分別)~される。」となっている。

この辺はカントさんに詳しい。
「純粋な・カントさん」はとても面白いのだが、
「私の・カントさん」は拗れに拗れてしまうため、
後は読者の内なるカントさんに託したい。

カントさんとて組合されなければ認識され得ぬ定めなのだ。
だから、なるべく労わってあげてほしい。


あぁそうだ。
言いたかったことを思い出した。

「g(グラム)」は「重さ」だが、「純粋な・重さ」ではない
という話だ。

「エネルギー」なんかもそうだ。

それがそこにあるためには、
一.それをそれだと認識し、
壱.それ以外のナニカをそこからどかし、
1.それをそこに据える
という「大いなる働き」が必要不可欠であり、
この計器を卓越した運動は物理的に計量不可能。

つまり、「純粋な・物理」というのは
かえって「非物理的」
ということだ。


しっかりと「~になる」ためには
少なからず「~である」ことが必要であり、

「~である」ならば、

「~になろう」とは思わないのだから、
「思うこと」の多くはあまりに「純粋」で空しい。

それゆえに「尊い」のだが、

しかし、やはり虚しく、悔しい。


だから、背理法的に

「私は~と思う。」や「私は~したい。」とかを

「~でなければ、もはや私でない。」

という段階にまで持っていく過程こそが、

行動、思想、思弁、思考の働きなのではなかろうか。

これこそ定言命法、只管打座、勤行にも並ぶ「意志力」
の発起である、と誰も思わずにはいられまい。


「純粋な・あなた」はあなただけ。

あなたでなければ、もはや人ではない。

あなたでなければ、神ではない。

あなたでなければ、愛ではない。


、、、

よほどの物好きでなければ、ここまで読まない。


あと個人的には、
背理法は強迫症的で好きじゃない。
意志論もまた然り。
小児病をこじらせたようなものだ。
でも別にそれでいいのかもしれない。



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