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『鞆の津・岡崎』 酒井仙醉櫻

 哉放さんに初めてお會ひしたのは、それが和服であつたか洋服であつたか、はつきり、覺えてゐないほど、遠い三十年も昔のことです、しかしその顏はあかるく輝いてゐました。圓滿な相、淸くすずしく光る目、落つきのある、ふかく智惠を藏してゐるような口元、醉えば人をひつぱることを忘れない放哉さんで、醉ふまでは人を引きつける、といつた風の一種の魅力のある、人なつかしいお顏がはつきり浮んできます。
 放哉さんを想ふ時、いつでも思ひ出されるのは、私の郷里鞆の津のくるわの黑門と京都岡崎の暗い闇夜であります。大正十一年の秋、居士が朝鮮火災へ赴任の途次でありました。ある日瓢然として來訪、先づ第一に申されたことは、港の帆柱が實によろしい、と宿屋の二階から見える、古い港の風景をほめられるのでありました。まことに磊落なあいさつであります。物に不自由のなかつた其ころ、鞆の津には、氣のきいた旅館はありません。其宿は町に一二軒の古いのれんの、少し高みに在りましたから、二階の一の間からは港のまんまるな汐が一目に見下ろされて、船の帆柱が立ち並んで、常時なんの屈託もなかつた放哉さんを楽しませたのであります。三日ほど逗留して時々來訪されました。句のことはあまり話されず下戸の私を相手に盃はいくらでも受けられるのでありました。今にして思えば、其頃すでにお酒の修業は充分に出來てゐたのであります。出發の前夜のことです。宿の夕食にうんと下地は出來てゐるらしく、足元すこしふらふらとして入つて來られました。これは酢の匂ひか、というような表情で之から渡つて行く海をを前に盃をもち、一時間位は呑みつづけられたでせうか、酒は菰まきが何丁も店に据つてゐましたので、家中一つぱいの酢の匂ひも苦にはならぬらしく、やがて盃をおいて、さあ行かうと私の手を引張つて立ち上られるのです。私は町中をしばらく、引き廻はされました。力が中々強いのであります。廓は旅館から遠くないので、安々と、その黑門までひつぱつて行かれました。
 罪は私に半分と酒に半分あります。と言ふのは、私がお國じまんの一つにお話した、平安朝以來の古風な廓のことが、この二三日の港の風景と盃の中から浮き上つて來たのでありますから。常時私はまだ醉ふたり遊んだりすることを知らないのでした。そこでしばらく、もみ合つてゐましたが二人の方向は北と南に別れたのであります。困つた私の顏と、一人になつても悠々とたのしい放哉さんの姿を想像して下さい。ただ少し淋しいのは帆柱と三日も遊んで句が殘つてないことであります。
 黑い闇夜の岡崎は、それから數年後のことです、私が岡崎圓勝寺町の吉富旅館ではなく、其そばの借家に居た時のことです、ある日放哉さんが吉富へ飛び込んで來て、備後の酒井といふ人が泊つてるでせう、と申されだんだん話してみると、其貸家にゐるのが私であるとわかつたのであります。この時はさすがの放哉さんもイヤ大失敗大失敗、と言ふて入つて見えました。其笑ひ顏が印象にのこつてゐます。焼酎二三合で全く醉ふてしまはれ、又引張りまはされました。其時は句の話も大分聞かされ、私の作つた句を批評しながら醉筆で、障子紙にさらさらと書かれたりした事を思ひ出します。さて其岡崎の暗闇ですが、之も同じ秋のいや晩秋の星が光つてゐる夜でありました。廣いグランドの暗やみで、二つの人かげが二つのたましひが、どんな風にもつれ合つた事でせう。之も私がわるいと言へばわるいのでした。放哉さんが、いよいよ小豆島へ渡ることに定つて、其送別句會が、井師の橋畔亭で開かれた時、浴衣で鉢巻をしめて元氣な明るい顏の放哉さんが君、今どこに居るかと聞かれるので、吉富の藤棚をくぐつて入るのです、と私の説明が、不充分であつたからです。
 鞆の津の黑門は常時の世間體を氣にして逃げ、岡崎の闇はふところ無一物で逃げ出したのであります。島へ渡られてからも、思ひ出しては申譯なく心の中でお詫びしてゐました。昭和の初めころ、小豆島へんろの時、私は居士の墓前に瞑目してゐますと岡崎の星が光つて、再度の逃亡をおわびしつつ冥福を心ゆくまでお祈りしてゐました。あの圓滿な顏、まるい少し禿げた頭に鉢巻をしめて、「あすからは禁酒の酒がこぼれる」その杯を手にした放哉さんの姿は、實に尊い人間像であつたのであります。


【参考文献】
「層雲」第37巻 第11號 昭和25年4月 発行   より引用。

※未校正です。


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