見出し画像

【コラム】私と昔と公園

こんにちわ。お散歩コーディネーターの並木です。

日々まちまちは、お散歩コーディネーター並木と建築家見習いの佐藤で「まちを使わない人なんていない。だから語っちゃおう」と始めた、まちに特化したラジオ番組です。
ラジオでは、noteに投稿したコラムを元に、2人で「あーだ、こーだ」自由に語っています

このコラムに関するラジオは↓から!

最近の散歩ルーティンは、
日がくれた後に近所をふらっと歩いて、スーパーで紙パックの飲み物を買って、公園で読書休憩。このサイクルです。至福のときという感じ。

つい先日、いつもより早く散歩をしたくなり、明るい時間に公園に到着。
いつものように本を開くと「いつもと違う居づらさ」を感じました。

本の内容が全く入ってこなくて、すぐに公園を後にしてしました。

なぜ居づらさを感じたのだろう。帰り道に思考を巡らすと・・・

結論は単純明快。
公園=子供が遊ぶ場 というイメージが自分にあったからです。

明るい公園に居づらさを感じた私は

・子供たち多いな〜。怪しい人って思われてるかも?
・他の椅子に座っている人は親御さん同士の井戸端会議だな〜

なんて思考が頭の中にありました。

振り返ってみれば私の幼少期は
暇な時間を見つけては近所の公園で過ごす子供でした。

当時の私は、
公園は子供が遊ぶ場所で、誰の保護者でもない大人が1人でいると怖いなと感じていた記憶があります。

この子供の頃に作り上げたイメージが、今の私の強く残っているような気がします。


話は現代に戻って、大人になった私の散歩ルーティーンにある、公園で読書が心地いいと思った理由がわかりました。

それは、夜で公園が暗かったからです。

子供が遊ぶ公園というイメージが薄暗さに消え、まちにある誰でも座っていい椅子という認識になり、周りが気にならないスペースが生まれたのかもしれません。

近年はPark-PFI(民間の事業者が公園の施設整備などを整える手法)などが進み、子供だけではなく大人がお金を落とす場になりうる公園も増えてきました。

そのような公園は、明るい時間でも大人の私は居心地の悪さを感じません。もちろん、昔よく遊んだな〜というような懐かしさもなく、目的を持って遊びにいく場所という位置づけです。
このような公園は、もしかしたら子供達にとってのびのびと遊べる場所でなないのかもしれない。

そもそも公園は公共施設であって、まちにいる誰もが使用していい場所。

話は少し飛躍しますが、最近は公共空間=誰もが居やすい場所ではないのかもしれない。誰もが居やすい公共空間ってなんだろう。なんて考えることもあります。

「公園」とひとくくりの言葉にされているけれど、公園の中にも階層があるのではないか。

考えれば考えるほど難しいですが、誰かの気持ちになってまちを考えることは新しい気づきの宝庫ですね。
これからも、誰かの話を聞き、誰かの視点に立ってまちを使ってみる。そこから得られる気づきを言葉に落とし込み応用していく。そんなことを意識しながら過ごしたいと思います。

最後に….
余談ですが、近所の公園で鉄棒をしていたおじさんはすごいな、と思います。もしかしたら、まち全体を我が者にできているのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?