友達のいない創作世界

 なろう系と近年のラノベやアニメって対等の友達がいないよね、という話題を目にした。二回くらい。

 理解できる話である。俺はなろう系や近年のラノベに精通はしていないが、ギャルゲーやエロゲにおいて主人公の悪友が重要なポジションにいるのが当たり前だった世代のオタクである。それゆえ、悪友のいない昨今のオタク向け作品には違和感がある。エロゲなんかでは、そのポジションにも美少女を充てることが増えている。あわよくばFDでその子のルートを入れよう、という魂胆が透けて見えるが、その成功率は意外に低い。もちろん、ゼロよりはマシだ、と言われればそれも正しくはある。

 俺なんかは、昔からハーレム作品と言うか、登場するキャラの男女比が歪だと楽しめない類の人間だったので、いわゆるきらら系さえも受け入れられなかったクチである。荒井チェリー作品や恋愛ラボなどの例外もあったが、基本的にきらら作品には不自然なくらいに男が出てこないのが常識だ。

 更に、オタク界隈をけん引するコンテンツ「ラブライブ!」シリーズはもう驚くくらい男の存在を消している。基本的に女子校が舞台なので教師に男がいないのはまだいいが、ファンにも男がいないのである。もしかしたらあの世界には男が存在しなくても問題ない、つまり、子供が残せる世界なのかもしれない。SFアニメのヴァンドレッドみたく。いやまぁ、あの作品は最後は再び男女が交わるようになるんだが、それはさておき。

 俺がどっぷりハマっているアイドルマスターなんかは、少なくともPと社長は男である。が、当然、彼らが主役を張ることは滅多にない。「朝焼けは黄金色」は実質、社長たちの過去を描いた作品ではあるが、あれは例外中の例外というか、ある種の裏技だったのでカウントするのは難しい。それはそれとして、作品の出来はいいのでお勧めではあるが。

 オタクコンテンツを展開する会社、ブシロードの作品群の多くに置いても、女しかいない世界は展開される。バンドリなんかがその代表例だ。登場人物の一人に弟がいる、という展開をやってみたら大炎上して、その存在が抹消されたのは記憶に新し……くはないが、実際に起きた炎上事件である。

 これは何も男性向けコンテンツだけの話ではなく、女性向けコンテンツも露骨に女を出さない。厳密に言えばプレイヤー以外の女は基本的にカウントされない世界である。悪役令嬢転生ものなんてものがあるが、乙女ゲーム界隈には悪役令嬢なんてものは存在しない、というのはよく聞く意見だ。それはつまり、男性向けコンテンツと同じで、プレイヤー以外に世界に介入するだけの役割を持った同性がいない、ということを証明している。

 つまり、男女という性別を超えて、オタク界隈には対等な友達が忌避されていると言える。それがオタク界隈のトレンドになれば、必然、金を出すスポンサーはその辺りに敏感になる。クリエイターが気にも留めないことでも、実際に金を出す側はケチをつけないといけない。わざわざ炎上して利益を減らすような作品を是とできるわけがない。リターンを前提にしてプロジェクトを始まっているのだから、それは当然だ。捕らぬ狸の皮算用とも言えるが、まぁ、最初から損をすることを前提にしてそれを始める馬鹿はいない。

 さてそんなわけで。

 オタクコンテンツ周りから対等な友達が排除されている。しかし、現実には人は、家庭を持ったとしても、同性とコミュニケーションを取る機会の方が多いはずの現実にまったく即していない。もちろん、それは現実を忘れるためのものだから、リアリティがいらないという意見はあるだろうが、その言説に従い続けて結果が、オタク自身とコンテンツ事態を虚弱にしてしまったのは事実だろう。

 その流れはオタク界隈だけに留まらず、あるいは、オタクのハードルが低くなった現在では、オタクでない人たちにまで広がっている。つまり、現代人はみな、虚弱体質であることを肯定してくれるものしか認めてくれないと言うことができる。

 都知事選があったわけだが、Xでは21歳の大人が投票した相手を馬鹿にされ、投票された自分も馬鹿にされたから選挙にはもう行かない、などと公言していた。もちろん事実かは定かではないが――所詮は肥溜めの中の言葉である――普通は、失敗したから次は成功するようにどうすればいいか、と考えるはずなのだが、若い人たちは失敗から学べないくらいに虚弱だ。いっそ病人と言ってもいいだろう。

 弱いのは罪ではないが、望んで弱くなることは罪であろう。人は成長する過程でどうしたって、強くなることを求められる。その競争についていけなかった人を切り捨てろ、とは言わない。当たり前だが、様々な事情で強くなれなかった人は生まれるものだし、強くなった人たちはそんな人たちを保護する義務を背負う、という形を構成したのが現代社会なのだから。

 しかし繰り返すが。
 望んで弱くなり、弱いことを誇るのは間違いなく悪の所業である。ありのままの自分を見て欲しい、という言葉をよく聞くが、はっきり言ってありのままの自分で他人から認められる価値を生み出せるような人は、ほとんどいないし、いたとしても、そんな惰弱さを掲げて自慢したりはしないものだ。ありのままの自分で社会を生きていくには、どうしても強さが必要だし、弱いままではできないことだ。

 たかが対等な友達一人作れない弱い人間が、ありのままの自分だとか、自己実現だとか、夢を叶えるなんてできるはずがない。他人や物語のキャラクターがそれを持っていることを許せないような狭量な人間を、誰が快く受け入れてくれるというのか。嫌われたいならそういう人間であるべきだが、ありのままの自分を受け入れて欲しい――自分を好きになって欲しい、と思うのであれば器量が小さいままでいることは許されない。

 もちろん、そういう人間が増えたからこそ、若い人ほど友達がいなかったり、恋人がいなかったりするわけである。友達を作れない人が、恋人を作るのは難しい。不可能ではないが、その場合のカップルや夫婦は一方の負担が大きくなり、いつか破綻する宿命を背負っている。

 独りは寂しいが、他人といるのは嫌だ。

 そんな考え方かもしれないが、現実においては家族だって他人である。つまるところ、自分以外はすべて他人でしかないのだ。そして、人は他人と繋がることを拒否していては生きていけない性質を持っている。家族と紗枝繋がれない人が増えれば、待っているのは速やかな衰退と滅亡である。まぁ、俺は個人的には世界の人口は十億人いれば十分だ、と思っているので減るのは万々歳だが、世間一般的には人口の減少は問題視されるものだし、回避できるなら回避するべき事柄である。

 更に言えば、家族だから仲良くなれる、なんてロジックは成立しない。たとえ家族でも、良好な関係を築くための努力を怠れば崩壊する。ありのままの自分を認めてくれる家族を求めるならば、ありのままではない自分でい続ける努力をしないといけない。

 それは無論、社会でも同じことが言える。矛盾しているかもしれないが、この世界は矛盾があることを寛容に認めなければ、スタートラインに立つ子すら許してくれないものだ。

 そんなわけで、皆さん。
 対等な友達くらいは作ろう。それができない、と嘆くのは構わないが、そこで行動を止めてはいけない。考えることを止めてはいけない。人は所詮、考えて行動してを何度も繰り返すことでしか生きていけない生き物だ。その生命の理に反逆したいならば、それこそ、ありのままの自分でいたい、なんて惰弱さは許されない。

 強くなるのは難しいが、対等な友達を作れるくらいの弱さを持っていないようでは、社会のどこにいても排斥されるだけだ。弱いことは罪ではないが、弱くあり続けることは悪である。

 強くあれ。強くなくても、強いフリをして生きて生きて……ありのままの自分になる暇もなく、強くあり続けて死んでいくしかないのが、人間社会の現実なのだから

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