三連休の終わりに幼なじみについて考える

 タイトル以上の情報はないので、幼なじみ属性なんてどうでもいいぜー! という人はプラウザバックを推奨だ。と思ったが、スマホ全盛のこの現代だと、その呼び方は通じるのだろうか。戻って欲しい、の一言の方がわかりやすいのだろうか。インターネット老人会に片足を突っ込んでいる俺にはわからない。個人サイトとそれの掲示板全盛期の人間なので、完璧なインターネット老人というわけでもないが、それはさておき。

 幼なじみである。

 二次元の世界でそこそこ幅を利かせているヒロイン属性と言えよう。いつの時代にも必ず存在するが、天辺を取ったことはない不遇の存在であるとも言える。ToHeartのあかりがいいところまでいったが、世間的にはマルチの方が評価された。なお、俺は彼女を通して幼なじみ第一主義過激派と化した。

 最近のオタク界隈では、そこそこの確率でヒロインになることはあるが、異世界だったり転生先にはついていけないし、ヒロインと一対一で少しずつ距離を近づけていくタイプのタイマンラブコメには適さない属性なものだから、どうしたってそこそこを超えることができないのが現実だろう。

 だが何よりも。

 幼なじみは現代においては、あまりうにもファンタジーだ。ライトでインスタントな作品が好まれる風潮の現代において、あるがずがないと思われがちな――二次元のヒロインでありそう、という方が少ないのだがそれはさておき――ヘヴィな属性であることが原因かもしれない。

 クラスの人気者がきっかけひとつで冴えない俺を好きになってくれる可能性はないじゃないし、学生時代にそれを夢見た人も多いから、ちょうどいい手軽さを演出できる。似たようなものでは、学校に潜入したテロリストたちを華麗に鎮圧する俺、というものがあるが、今は置いておく。そういうものが読みたい人は、松岡圭祐の「高校事変」なんかが最近ではお勧めだ。内容は本当にそれである。巻数が多いことが問題だが、一巻だけでも満足できると思う。かの作家は正しくライトでインスタントな作品を紡ぐからだ。

 ともあれ、それに対して幼なじみである。
 幼い頃から一緒にいて、つかず離れずを維持して、思春期になっていくらかのすれ違いはあれどそれでも一緒にいて、なんならちょっと男女の意識をしている……
 という設定がライトでインスタントな作風と食い合わせがいいはずがない。ヘヴィな作品との相性はよいのだが、どうしても重い愛とか湿度の高い愛との相性の良さばかりが注視される。

 無論、それは幼なじみというものの武器だ。彼への思いを胸に秘めて、他の女の子の所へ行くように促して、影で泣く……なんてのは王道で――忌々しいことに――今でも見るには見る。古い話だと、shuffleのアニメだとそれがいきすぎて、有名な空鍋事件に繋がったほどである。軽さなんてどこにもない、重い愛だ。グラビティの世界へようこそである。

 ついでに言えば、現実においては恋愛というものだって軽くてカジュアルなものになっている。昔からそうだが、中高生の頃の恋愛がその人のその後の人生を決める、なんていう重さは最近では好かれない。創作の世界では当然のように中高生の頃の相手と結婚しているが、現実にはどう考えたってありえない。たかが子供の恋愛にどうして本気になっているのか、とさえも言われるだろうし、所詮は性欲に基づいた愛でしかなく、子供ができてしまってああだこうだと問題になる。14歳の母、というドラマが過去にはあったが、最近では――母になるかはともかく――珍しくないかもしれない。恋愛だけでなく、性行為そのものがライトになり、触れやすくなれば、妊娠の数も増えるのは当然だ。
 余談だが、最近の都会の女子高生は月に最低でも十万円ないと生活に支障が出るらしい。推し活だとか遊びなどなどに使うそうだが、その大金はバイトしていても手に入らない。というわけで、必殺パパ活の出番となる。援助交際と何が違うのか、というのはわりと疑問なのだが、名前が違えばなんとなくイメージが変わるだろ、と言われれば納得できないこともない。

 もし、幼なじみがいれば、そういう金を使い過ぎるために金を得るのを止めてくれるかもしれないし、推し活よりもよっぽど健全な金の使い方を共に実践してくれるかもしれない。誰だって、隣にいる人が破滅に向かって一直線に走っていれば、止めようとするものである。多分。昨今はそういう人としての情を切り捨てよう、という風潮もあるように思うが(またそれを効率的という人もいるが)、俺としてはそこまで社会を悲観的に見たくないので、一旦、置いておく。

 何よりそれが。

 いざという時に自分を止めてくれる、という存在が。

 現代人には重い、のかもしれない。
 それはつまり、自由のはく奪だと、いうわけだ。

 幼なじみは他人だが、家族のように情をかけてくれる存在だ。だが家族の情なんてものが与太話になっている昨今、若者はそれを意見の立脚点として考えられない。存在しないものを土台にして思考なんてできるはずがないからだ。人は所詮、あるもの――認識できるものしか思考の土台にできないものである。だからこそ、その外にも世界があり、人がいることを認識できるようになり、それを成長と呼ぶはずなのだが、現代では成長とは目を塞いで精々が手の届く範囲に引きこもることをそう呼ぶようになりつつある。外からの刺激は不要、というわけだ。

 幼なじみとは、意外にもそれ――外からの刺激をくれる存在である。自分と趣味が合うようで、合わない所もある身近な他人、というだけで刺激になる。だからこそ、オタク界隈では幼なじみは陽の目を見ない。

 オタクは特に、外からの刺激を怖がるようになったからだ。

 それに警鐘を鳴らす作品群は、八十年代にすでに姿を現している。Zガンダムやうる星やつらビューティフルドリーマーなんかが代表的だが、歴史に名を刻まれるだけの活躍をしたクリエイターたちはとっくの昔に、外からの刺激を恐れるあまり、社会や他人との交流を拒絶するオタクの性を危険視していたし、現代はそれがオタクの、ではなく、人の性になったとも言える。

 Zガンダムの名前を出したので、ガンダムでたとえるが、ガンダムの生みの親の富野由悠季の最新作Gのレコンギスタは、要するに、世界のことを知ったからこそ、自分の見えているものの外にあるものを自分の目で確かめにいこう! そのために必要なものが元気と、それを理解して、刺激をくれるパートナーだ! という作品だった。パートナーの件は劇場版で追加されたシーンなので、テレビ版にはないのだが、その役を担ったのは主人公ベルリと一緒に世界を見た、幼なじみのノレドだった。彼女はベルリの内面を肯定しながらも、外からの刺激を与えるキャラクターでもあった。これぞ新時代のヒロイン、とさえ俺は思った。

 だがガンダムの最新作水星の魔女では、結局は自分の世界の中だけで生きて、互いに刺激を与え合わない形の絆を紡いで終わり、そしてそれが好評だった。

 人は、自分の認識の外に世界があり、そこから受ける刺激を拒絶するようになった。だから、幼なじみというものがそこそこのヒロイン止まりになったのかもしれない。近年の幼なじみは、ただの主人公のありのままを肯定するマシーンだ。つまり、刺激を一切、与えないのである。そうでなければ、人はキャラクターを拒んでしまうから、そうなるしかない。

 幼なじみに限らず、パートナーとは互いに刺激を与えあい、共に成長していく存在だと、俺は思っている。だが、現代ではその定義は通用しない。互いに慰め合い、自分の世界に引きこもるための道具、それがパートナーになってしまった。あるいは、金づる。余計な刺激を与えず、言動もしないでただ金をくれるだけの存在を、パートナーと思える人たちがいる。

 もちろん、時代に応じて言葉の持つ意味は変わるものである。だから、パートナーの意味だって、家族の在り様だって変わるものでしかない。

 だがそれを寂しい、と。言うくらいの自由が人にあってもいいのではないか、とも思う。懐古主義ではなく、変化でも進化でもない、退化を肯定しないと生きることが許されないのは、あまりにも、恥知らずではないだろうか……

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