Remember11は誰を癒したのか

 そういうタイトルのゲームがある。
 凄まじき名作ADVであることに異論を述べる人が少ないであろう、「Ever17」のinfinityシリーズの三作目であり、その終わりとなった作品だ。精神的続編と呼べる作品はあるのだが、本家はここで終わってしまった。

 いくつか理由があるが、Remember11は未完成で発売されたからである。その辺りの事情は、PSP移植版の特典のスタッフインタビューを読めばわかるのだが、未完成ながらも全力を尽くして完成させた、という矛盾の塊みたいな作品となってしまう、ユーザーからは非難を浴びて、KID解散の背中をしたと言っても過言ではない。実際、この作品からのKIDの凋落はリアルタイムで追っていた身からすると、筆舌に尽くしがたいものがあった。

 しかし、このRemember11は個人的にはひとつの解釈があり、それが正解だったとすれば、この上なく、ゲームの世界とキャラクターたちに優しくあろう、とする作品であり、その意味では傑作なんてものでは形容しきれないほどの作品だったのかもしれない。

 もちろん、以下に続く考察は俺の妄想なので話半分で見て欲しい。所詮、公式で答えの出ていない作品の答えを探そう、という行為が美しくないのだが、青春時代にinfinityシリーズに脳を焼かれた結果、その精神的続編たちにまで手を伸ばしたおじさんのたわごとなんて、美しくあるはずがない。そんな開き直りをして、文章を……綴る!



 まぁ、この作品は言ってしまえば、メタネタの極致だったと言えよう。要するに、ゲームのキャラクターたちが、悪意を持ってプレイヤーを利用した作品だからである。
 いや、それは正確ではないかもしれない。
 プレイヤーの悪意に対する復讐劇だった、と言うべきだろう。

 話は変わるが。

 ドラゴンクエスト辺りを例に出すと、あの世界は大体が魔王に平和が脅かされた世界を救うゲームである。
 だが、その破滅的な状況を作ったのは誰か――観測したのは誰かと言えば、プレイヤーである。プレイヤーが説明書や雑誌の情報を見て、世界に聞きを知り、その危機を救えるのは自分しかいない、と世界を救うわけだ。

 しかし、考え方を変えれば、こうも考えられる。

 プレイヤーが世界の危機を認識して、ゲームを起動して危機が迫る世界だと認識を固定しなければ、実はゲームの世界は平和だったのではないか。つまり、ゲームの世界の平和を壊したのは魔王ではなく、そういう世界を望んでゲームを起動したプレイヤーだった、とも考えられるのだ。

 もちろん、事前にそういう情報を与えられていたのだから、プレイヤーは悪くないわけだが、それでも、プレイヤーがゲーム世界に介入しなければ、ゲーム世界の平穏は守られていたかもしれないし、あるいは、プレイヤーが介入した果てのハッピーエンドよりもハッピーな終わりを迎えられたかもしれない。

 つまり、ゲームにおいて、プレイヤーはゲーム世界と、その世界で生きる人々の可能性を奪う存在であり、魔王を生み出したのは他の誰でもないプレイヤーなのである。当然だ。世界の危機を救いたい、という欲求を満たすためには、大いなる悪が必要なのだから、それを味わうためには悪が生まれるし、人々はその悪に苦しめられないといけない。

 はたして、そのような形でプレイヤーに作られた平和が、本当にゲーム世界とキャラクターたちの望んだそれなのだろうか。

 Remember11は、まさにその問いに対する答えだったのかもしれない、と俺は思うのだ。

 この作品では、プレイヤーが介入したことにより悲劇が起き、キャラクターたちはそのプレイヤーの存在をゲーム世界から抹消することで、悲劇をなかったことにしようとした。
 それが作中で言われた、「ユウキドウ計画」の本当の目的ではなかったか――つまり、プレイヤーがゲーム世界に介入しないし、余計な情報を得て世界の形を固定しないようにすること、である。

 それが具体的にどういうことかと言えば。

 プレイヤーがゲームをプレイしないことである。
 プレイヤーがゲームをプレイしなければ、ゲーム世界の自由と平穏は保証される――かもしれない。もちろん、自由な世界が必ずしも平和で幸福だとは限らないが、少なくとも、プレイヤーの観測して定めた世界のように、世界の危機とは無縁でいられるわけである。

 そう。
 Remember11はゲームでありながら、ゲームを否定したのである。プレイヤーの遊戯を求める心や好奇心で、ゲーム世界とキャラクターの人生を決定してしまうことへのアンチテーゼだったのだ。

 メタネタここに極まれり、という感じだが、当然こんなゲームが受けるわけないし、制作側だって混乱するだろう。ゲーム制作側が、プレイヤーがゲームをプレイさせないようにするためにゲームを作るなんて、矛盾を超えて意味不明だ。

 しかし、KIDのスタッフはそれに挑んだ。
 そして、敗北した。
 勝つ可能性なんてもの、あるはずがない。ゲームでありながら、ゲームという遊戯そのものを否定した作品なんて作れるはずがないし、作れたとしても、ゲームが好きでゲームを買ったユーザーに受け入れられるはずがない。

 実は、この考えを肯定するように、Remember11のディレクターが精神的続編として作り上げた「I/O」では最後、あらゆる観測者から解き放たれた世界に移動することで、ハッピーエンドとした。それはつまり、プレイヤーにすら干渉できない世界への移動だった。まぁこのオチも評判が悪かったのは言うまでもない。俺もプレイ当時、かなり呆然とした記憶がある。

 しかし、クリエイターとして、生み出した世界と人々の自由を守ろうとすれば、それは、プレイヤーから見離される、という形でしかそれは叶わないものである。プレイヤーが――観測者が観測をやめたとしても、生まれ出でたものは消えない。その世界は生き続けるのだから……という祈りが込められた作品。それが、Remember11だったのかもしれない。

 重ねて言うことになるが、これが真実だとは思ってはいけない。あくまでシリーズを追いかけ続けたおじさんのたわごとだ。アノニマス・コードで心をだいぶ折られたが、これからも追いかけていく気はあるが、はたして、どうなっていくのだろう。ADVというジャンルそのものがソシャゲに置き換わった現代で、ADVは生きていけるのか……

 あるいは、それこそがADV世界とキャラクターたちの自由と幸福を守ることになるのかもしれないが――その結論は、さすがに少し、苦味が強いと思うくらいは許して欲しい。

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