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会話の色

学生食堂はいくつかあるが、元老院広場前の中央棟にある学食がいちばんおいしい。だから、午後に授業がない日は、理学部のあるクンプラキャンパスで午前中の授業が終わったあと、中央棟のある市街地中心部へと向かう。授業で考えたことを整理しながらバスに10分ほど揺られる。

でも今日は零下10度。できるだけ移動はしたくない。だから、しかたなく数学科とコンピュータ科学科のある建物で学食を食べることにした。12時の学生食堂は、フィンランド語と英語と、それからイタリアかスペインのラテン系、中国語、中東の言語、入れ代わり立ち代わりで落ち着きがない。本当は静かに食べたいが、早く帰って課題を進めなければならないから、列に並んだ。

ヘルシンキ大学は他のフィンランドの大学に比べて学食の評判が悪い。主食はパスタかじゃがいもか米が取り放題で、マッシュドポテトがあれば幸運だ。次に主菜を選ぶ。ヴィーガンかヴェジタリアンか肉の3択で、私はいつも肉を食べる。そしてサラダバー。これがあるから、まずくても学食で食べるという人は多い。最後にパンは取り放題。2.95ユーロを払って席を探す。

この食堂、天井が高い割に席は少ない。急に人が増えて、席がどんどん埋まっていく。一周まわって空いていなかったので、2周目に突入した。正確には、空いていないことはなく、4人席に一人で座っているフィンランド人がいた。私はフィンランドに住んでもう3年になるが、いつの間にか4人席の対角線上の向かい側に知らない人が座っている状況を気まずいと思うようになってしまった。以前は全くそんなことなかったのに。3年住んだ日本人が気まずいのであるから、その地で生まれ育ったフィンランド人が気まずくないわけがない。しかし、このままだと席を見つけられないまま3周目に突入して、いよいよどこにも座れなくなる。そこで、勇気を出して、「この席空いていますか」と聞いてみた。

そこに座っていたのは、もう60年はフィンランドに住んでいるであろう老紳士であった。この建物で平日の何もない日にスーツを着ているのは、一貫してヘルシンキでキャリアを積んできたような保守的な数学科の教員であると予想される。私が席につくと、彼は「フィンランド語を話すの?」と聞いてきた。ふつうフィンランドでは、少なくとも若者は、この状況で対角線上に座ってきたアジア人とスモールトークをすることはまずありえない。でもそれがなぜか非常に嬉しかった。きっとフィンランド人かどうかは関係ない。同じ大学で同じ学問をしている仲間、それ以前に同じ机に座っている隣人である。

高校留学の初期を思い出した。夢だったフィンランドに到着したときは、目の前の人間がフィンランド語を喋っていることに興奮してしまい、街ですれ違う人間全員にあいさつしてしまいそうな衝動を抑えるのに必死だった。授業で、食堂で、サッカーチームで、とにかく知らない人とも躊躇なく話していた。ずいぶん暑苦しい日本人が来たと思われただろうし、実際少し変だったと、高校からの友人が当時を振り返って言っていた。

老紳士は、黒髪の私がフィンランド語を話せることを気に入ったようだった。彼によると、フィンランド人は英語も喋れるが、外国語を喋ると会話に色がなくなるらしい。確かに、外国語の語調を使いこなすのは難しい。でも喋らなければ色もつかない。フィンランド生活も3年、日常の会話に、色があせてきてしまったかもしれない。


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