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自分だけの音風景




3年前の秋の気持ちよく晴れた平日の昼間、個人美術館をあとにして、お目当ての洋菓子店に向かい、閑静な住宅街をひとりで歩いていました。
誰もいない路地に、自分の足音が大きく響いています。
風がそよりともしない日で、それぞれの家の庭木の葉がぴたりと固定されています。
歩き慣れないその路をしばらく歩くうちに、急に胸騒ぎがして、足を止めました。
静かすぎたのです。
自分の足音が消えると、もうなにも音がない。
耳の奥の奥深くまで静寂がはいり込んで、真空になったかのようです。
不安になって、なにか動くものを探して空を見上げました。
さわやかな水色の空には大きめの雲がひとつ浮かんでいて、それをじっと見つめてはみたものの、まるで動いているようには見えない。
世界にたったひとり残されたような恐怖が、いよいよ本格的に胸に押し寄せてきたとき、どこかの家からキュッと蛇口をひねる音がして、女性の穏やかな笑い声がしました。
それに合わせたように、チュンチュンと雀が鳴いています。
それで、緊張がいっきにほぐれました。

あるべき音が聞こえることの安心を、実感したできごとでした。

じつのところ、私たちが世界に属していると感じるのも、心の拠り所を感じられるのも、音のおかげなのだ。

序章「サウンドマインドー音と脳の協調関係」



『音と脳
 あなたの身体・思考・感情を動かす聴覚』
 ニーナ・クラウス 著
 伊藤 陽子 訳
 柏野 牧夫 解説
 紀伊國屋書店





著者は、聴覚神経科学の研究者です。
この本は、たとえば音楽だったり他言語を話したりする経験は、脳の音の処理をどう変えて、どう影響するかなど、音がどのように私たちを形づくるかについて幅広く書かれています。



映像や音、動き、匂い、ついさっき感じたあたたかい風……と、私たちは毎秒ごとにすさまじい量 (推定では毎秒10 メガバイト以上) の感覚を経験しています。
脳と高度な感覚系にはおびただしい数のニューロンがありますが、すべてを処理することはできないため、不必要なものをふるいにかけてとり除き、いまこのとき・・・・・・重要なものに注力しなければなりません。


脳が音をどう処理するかは、過去において注意を払ってきたことによって決まります。


たとえば、こんな例があります。
生後数ヶ月の乳児は、ありとあらゆる言語、つまり、世界中の言語の音素、強勢、ピッチ (音の高低) を認識するそうですが、母語にとっての重要な音に対して、脳における音の処理⸺サウンドマインド⸺が磨かれるにつれて、その能力は失われます。

誰もが、話す言葉や自分の生活にとって重要な音といった、音を聞く経験と音への注意をとおして、音を処理するための独自の基盤をつくりあげているのです。


あれ、なんか音が鳴ってる。どこから?
あ、そうだ、着信音を変えたんだった。


こんな場合もそうです。
サウンドマインドの学習は、ただ聞くのではなく、注意をくり返し向け続けることが大切です。
それによって、聴覚伝導路に沿ったすべての器官が変化して、新たなデフォルト状態がつくられます。
そうなれば、重要になった信号が優先的にコード化されるため、音と意味との結びつきに、もはや注意を払う必要はなく、より速くて効果的な新しい方法で、脳が “自動的に無意識に” 音を処理するのです。


サウンドマインドは、辺縁系(情動)、認知系、感覚系、運動系と協調して働いて、そのときどきの音を聞く目的を最大限果たすようにしています。
一方、音の専門家は、音の細部にくり返し注意を払い続けることによって、どこに注意を払うべきかを学ばなければ聞きとることのむずかしい微妙な差異を、たとえ眠っているあいだでさえも、認識できます。
サウンドマンインドが永続的に強化されたデフォルト状態になっているのです。
つまり、音の専門家は、時間をかけて努力することで、聴覚そのものを変えています。

音の専門家といえば、音楽家、音響技術者、サウンドデザイナー、野鳥観察家などを思い浮かべますが、まず私たちはみな、自分が話す言語の専門家です。


バイリンガルの人はより多くの音素⸺言語の音⸺を経験しているため、脳における音の処理がより強められています。
一方の言語だけが要求される状況でも、他方の言語を完全に「消す」ことはないそうで、脳にある2つの言語は互いに作用しあいます。
そのことがもたらす良い面が本書に多数書かれていますが、例としてひとつだけあげると、2か国語を話す人は、衝動性を抑えるのに優れているそうです。
「抑制機能」 と呼ばれるこのスキルは、気をそらさずに重要なものに注意を払うためには欠かせないものです。
一方の言語で話したり書いたりしているときには、他方の言語の語彙と構文を抑制しなければならないことが、おのずとその訓練になっているのかもしれません。
また、音楽についても、数多くの良い面が書かれていました。


音楽をしたり第2言語を学ぶことは、自身のサウンドマインドを磨くことになります。


その人が世界をどう認識しているかは捉えがたいですが、音がどう処理されているのかを頭の中の信号によって分析すれば、その人が音を経験に基づいてどう解釈しているかが見えてくるといいます。


誰もが自分だけの音の個性を持っていて、聞く音はその人自身を形づくるようです。




この本を読んだあと、もっとも影響を受けている音はなにかと考えたとき、それはみな、自分自身の言葉ではないかと思い至りました。
なんといっても、生まれてこのかた、ただのひと言も漏らすことなく、注意を向けて聞いてきたのは、唯一自分が発する言葉だけです。
前向きな発言をして俄然やる気になったり、とっさに気の利いたことが言えて気をよくしたり、声が震えているのを聞いて思った以上に自分が傷ついていることを知り、ますます心を傷めたり、そんな経験は誰にでもあると思います。
そして、自分の言葉に傷つくことも。
心にもないこと、調子を合わせて言ったこと、勢いで口走ったこと、言わなくてもいいこと、言葉の選択を間違えたこと、……。
たいてい人はみな、自分の発言を大目に見る傾向があると思っていますが、傷ついた心をないがしろにする癖をつけると、心と言葉が大きく乖離していく気がします。
だから傷ついたときは、なるべく早く心を整えることが大切です。
それには音楽が必要なこともあるけれど、曲が終われば、静かに自然の音に耳を傾けるのもいい方法だと個人的には思います。
風の音、水の音、雨の音、葉擦れの音…
その音に自分のだす音が重なる。
呼吸の音、足音、ページをめくる音、なにか書く音、リールを巻く音…
自然の音と自分の音。
日常のたくさんの音から逃れて、その重なりが耳に届くと、徐々に心が整っていく気がします。
もしかすると、私たちが喧騒から離れて自然を求めるのは、この世界にたしかに自分は存在しているというその音の交わりが、心を安定させるために必要だからなのかもしれませんね。



最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。

先月、noteをはじめて1年経ったお知らせが届きました。
たどたどしさはあいかわらずなので、そんなに経っていたことに驚きです。
それでも、こうしていまも楽しく投稿させていただいているのは、読んでくださる方、スキを押してくださる方、フォローしてくださる方のおかげです。
ありがとうございます。
そしてこれまでに出会えたたくさんの投稿記事にも、感謝しています。
栄養をたっぷりいただきました。
ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いします。

川べりに咲いていたユキノシタ
なんだかお遊戯会みたい⭐︎




あなたとあなたの大切なひとの
やさしい声が、
今日もだれかの力となりますように


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