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長い道を歩いてきた母に向けて、

今日、母が退職した。
私が見てきた母の社会人人生は約18年間。
それはあまりにも長く、おそらく過酷な日々だったと思う。

私の母は、私の母になって約18年。
小学校低学年の時に両親が再婚してから、しばらくの間はお母さんと呼ぶことが出来ず 名前にさん付けをしていた。今考えればひどく傷つけていただろうと思う。それでも母は母だったから 子供である私の気持ちを考えてか お母さんと呼ぶことは強要しなかった。のちに、私の祖母が「あなたたちのお母さんは家政婦さんじゃないのよ」と叱ってくれてからは 私たち兄弟はお母さんと呼ぶようになった。母は呼ばれた瞬間、少し驚いた顔をして、それから笑いながら なにごともなかったかのように返事をしてた。

私が幼い頃の母は厳しかった。
バリバリにキャリアを積んできた母の教育は、今思えば 部下を育てているようだった。何かをお願いするときはそれに必ず理由が必要だったし、何かを謝る時もなぜ悪かったのかやこれからどうするかなど様々なことを話すように言われた。こんなん会社じゃんと思っていた私だったけれど、母は何かを誰かに教えるというのを子育てとして知らなかったから そうやって色んなことを教えようとしてくれたのだと思う。

そんな厳しい私の母は、いつも母らしくて そして可愛らしく 尊敬できる人だった。
何か勉強や興味があることには惜しまずお金を払ってくれた。本や参考書はもちろん、「勉強のためならなんでもお金を出すよ」と言ってくれた。学びたいと思った手話とかも、まだ貯金に余裕がなかった私が頼み込むと「きっと将来 何かの役に立つ時が来るから」とお金を出してくれた。今考えれば、手話の1年間の受講料は私の初任給くらいしたし、普通に考えれば 3人の子育てをしてる親がそんなに気前よく出せるものでは無いはずなのに すぐに応じてくれる、なんて恵まれた家庭だったのだろうと思う。
そしてそんな気前の良い母は花束をあげるとこの上なく喜び、私の料理はいつも絶賛してくれ、お弁当を代わりに作ると言えば 遅くまで寝れるのにいつもと同じ時間に起きてきて 隣で写真を撮り始めるとても可愛らしい母だった。
会社では大勢の同僚に尊敬されていて、「あぁ、母のような上司だったら、さぞ働きやすいのだろうな」と社会人になって何度も思った。仕事の要領が良くて、勉強熱心な人だった。

そんな私の母は、今日 長いこと務めてきた会社を退職した。終電帰りだったり、始発で会社に行ったり、土日も働いていたり、そんな生活をしていた母からのLINEには 「もっと母親らしくしてあげればよかった」との言葉があった。

母親らしさというものは、まだ親になっていない私にはわからない。わからないけれど、私はこの母を母親らしいと言わなくて 何をそう言えば良いのだろうとふと考えてしまって、そう思った瞬間に涙がとめどなく溢れてしまった。

少なくとも私にとっての母は紛れもない母なのだから、私の母が生きてるであろうこれからの数十年、貴女は紛れもない私の母なのだと 言葉や態度で伝えていきたいなとそんなことを考えてる。

母が母としてというより、一人の人として 色んな荷物を下ろしながら 今まで出来なかった好きなことを存分にしてくれたらいいと思う。なんて言うと、「お母さんはいつまでもお母さんでいたいものだよ」なんて言われそうだけれど、なんでもいいから とりあえずさらなる幸せが彼女に振り注げばいいと思う。


最後に。この話をすると 親が再婚していて可哀想と言われることがあります。たしかに、幼い頃はしんどいこととか 嫌なこととか どうして自分ばっかりとか色んなことを思ったり考えたりしたこともありました。けれど、こんな私だからこそ考えられることがあるんだなとか そうやって考えることができるようになって。だから今は、私はこの家族の形でその中に居てきっと良かったのだなと思います。

こんな世の中ですが、全ての人が幸せな日々を送れていなかったとしても、今日この瞬間 少し生きていてよかったなと思えるそんな瞬間があればいいなと思ってます。明日がほんの少しだけ、良い日になりますように。

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