合う人に会う

〝会いたい人にもう会えない〟という絶対的な事実が〝会う〟ということの価値を急激に高めた。  
誰と会ったか、と、誰と合ったか。  
俺はもうほとんど人生は〝合う人に会う〟ってことで良いんじゃないかって思った。
それは、家族だし、友達だし、先輩だし、後輩だし、仕事仲間だし、ファンだし、相方だし。  
そういう合った人にこれからも会えるようにがんばる、ってことが結論で良いんじゃないかなって思った。  
誰とでも合う自分じゃないからこそ、本当に心の底から合う人に会えることの喜びと奇跡を深く感じられた。

ナナメの夕暮れ

テレビドラマだが情熱はあるを見ていて、若林正恭さんがこの原稿を書いているシーンがあった。この言葉は彼が人生というものを決定づけるほど思いがつまった言葉だった。

誰と会ったか、と誰と合ったか。

僕はどれほど合った人に会えてきたのだろう。
家族はどうだろう、父も母も合うかと言われれば疑問であるが、間違いなく僕は彼らから育てられているのであり、どちらかというと合わせられている。それでも、大人になるにつれて、彼らから独立して1人の人間になれたのだと思う。
姉は合う人間だと思う。彼女との会話は面白いと思うし、言葉に対する感性は近いものがあるような気がする。

友達はどうだろうか。本当に合うと感じる友達は限りなく少ない。話してて心地よいのと、気を遣わないのと、素直に笑えるのが条件だと思うのだが、そんな人は片手で足りるほどの人数だと思う。そんな貴重な人だからこそ、もっと大事にしなければならないのだろうとそう思う。

恋人はどうだろうか。今は恋人はいないが、かつて付き合った人、好きになった人は、自分に合った人たちだったのだろうか。合わなかったから僕らは別れたのだろうか。別れたからといって合わなかった人たちと決めつけたくない。合ったかどうかだけがすべてではない。それ以前に会えたことは運命なのだと思う。そう思いたい自分がいる。だからこそ本当の意味での合う異性と出会える確率は0に近いのかもしれない。きっとそのことが、永遠に愛を誓わせようとする原因なのだと思う。

僕にとって、みんなにとっても同じ考えだろうが、どういった人が自分に合う人間なのか、その条件は感覚的なフィーリングであって言語化することが難しい。好きなものが同じなら合った人間なのではないかと思った。好きな音楽、好きな映画、好きなお笑い。自分の感性や価値観、哲学がこういったものに詰まっているのだと思ったが、案外人間の相性というのはかなり複雑でそんな簡単な話ではないらしい。実際好きな音楽が同じでも自分と合わない人間がかなり多い。このことは意外とショッキングなことでもあった。逆に話してて居心地がよかったり、素直になれたりできる存在は、好きなものなどどうでもよかった。目には見えない、言語化することの難しい、間合いのようなものが存在していて、そこに自分が合うという曖昧なものが存在するのだろうか。

これほどまでに複雑で難しい、人間の相性を前にして、自分の隣にいてくれる人がいるという事実はあまりに尊いのではないかとそう思う。そういった人たちを僕はもっと大切にしなければならないし、そういった人たちにまた会いたいと思われる人間になりたい。

そして、合ったと思う人間たちに僕は会いたいと伝えなければならないのではないだろうか。会いたいと思うだけでなく、会いに行かなければならないのではないだろうか。

会えなくなるから会うことの価値が高まり、孤独だからこそ、人がそばにいることの大切さに気付いた。

僕はこれから会う人たちを大事にしたい。

そう思った。

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