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2023/09/21(木)
きのうひとつ日記を公開したあと、自分で読み返したらつまんない文章だと感じた。というか、昨日の文章は日記ではないのでは? でも、とりあえず何かしら書いて、公開し続けることにします。だって、公開したらそれまで気づけなかったことに気づけることがあるとわかったし、続けたら、また新しい発見があるかもしれないので。それに、つまらないことはやってはいけないことではない、ということにも気づいちゃった。
昨日の日記でイアン・ハッキングに触れましたが、イアン・ハッキング自体は社会問題の解決のために「何が社会構成的か」を探究しているわけではありません。だいたい、哲学者は「何であるか」とか「どうしてこのようにあるか」を探究してるが、必ずしも誰かのために探究しているわけではないでしょう。
「は? じゃあ哲学者ってのは、ごちゃごちゃ言ってるだけで、役立たずじゃねえかよ」という悪口が聞こえてきそう。ぼくの頭の中では、昔のバイト同僚で、いかにもヤンチャやっていたという雰囲気の大学生K君の声で、そのセリフが再生されました。
これはある一面ではその通りだと思うのですが、しかし一面的でしかないと思います。哲学(者)いらない派は、人は問題解決や何らかの良さのために考えたり発言すべきだ、という思いこみがあるのでしょう。しかし、社会的な良さとか問題解決のためではない探究というものがあるのでありまして……。
哲学には哲学固有の良さがあるんだと思います。「だから、それは何だよ? 見せてみろよ」とK君のような人は言うのですが、たとえば将棋の面白さがわからない人がいるように、あるいはフィギュアスケートの良さや美しさがわからない人がいるように、哲学の良さがわからない人がいる、というだけの話で……。
書きながら、永井均が美術批評もまた芸術的価値を持つのでなんたら、みたいなことを書いていたことを思い出した。でも、今書いたこととどう関連するかよくわからない。今日は眠いので、明日そのことを調べてみよう。
あと、ですます調は書きづらいので、やめる。
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