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2023/10/09(月・祝) 人生があと5分だったら

わたしの人生があと5分しかなかったら、と仮定する。そうしたら、この手元にある『論理学をつくる』という本は読むだろうか、読まないだろうか。読まないかもしれないと思う。

では、あと10分あるとしたらどうだろうか。述語論理はここから10分以内の人生に役に立つだろうか。バカバカしてくて勉強しないだろうか。でも、わたしはまだ述語論理についてよく知らない。それが生まれた経緯も知らず、それによって何が言えることになるかも知らない。そもそもどんなことに役に立つのかよく知らない。

そもそも勉強は「役に立つ」ためにやっているのだろうか。役に立つためにやる勉強もあれば、そうでないものもあるかもしれない気もする。40才を過ぎたのに、こういう問いにまったく答えられないのはすこし情けない感じもする。

ところで、論理学の教科書を読むことは勉強? 遊びでは? テストのために読むわけでもないのだから。

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役に立つかどうかは、どうやって判断しているのだろうか。「役」とは一体何を指すのか。

過去の勉強は、実は今の自分に役に立っているのだけれど、気づいたらその勉強によって身につけたものをいつから身につけたかということにはまったくわかっておらず、ある観点に立ってみてみると役に立っていることがうっすらわかるのだけれど、まったくそのことを自覚していない、ということもありうると思う。

勉強するということは、常に「今の自分が楽しいと思うことをやらずに、将来のために今を犠牲することでしかない」のだろうか。永井均の『子どものための哲学対話』のことを思い出そうとしていて、上品ということと「今を楽しむ」ということとの関連を思い出そうとしているが、これもうまく思い出せない。

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形而上学の本をいくつか読んでいる。「部分は全体の総和なのか、あるいは部分にはすべてがあるのか」というような問いがたてられていて、興味をひかれる。そして、まだ読んでいないが(それどころか買ってもいないが)、古東哲明『瞬間を生きる哲学』というタイトルを思い出している。その本をすぐに買う金もないので、本の内容を想像して過ごす。また読みたい本が増えてしまう。その本なら、役に立つかもしれない……どういう意味で?


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