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人新生の「資本論」

「SDGsは、大衆のアヘンだ」という挑発的な出だしに、膝を打った人も多いかも。
今売り出し中の斎藤幸平氏の新著『人新生の資本論』。
環境配慮、SDGs、グリーンニューディールなどのスローガンを掲げ行動しても、成長の論理の同じ土俵での対策では、資源や化石燃料の消費を抑制するのは根本的に不可能である。根本解決のためには、資本主義を終わらせることだと正面から率直に語り、晩年のマルクス研究から見えてきた脱成長のコミュニズムをボジティブに訴える書。 ベストセラーになると思う。

以下備忘としてのメモ。

知の巨人カール・マルクスとその盟友であるフリードリヒ・エンゲルスが残した全ての資料を発掘し、マルクス・エンゲルス全集(MEGA)として刊行する世界的なプロジェクトが現在もなお進行中である。マルクスらが残した膨大なメモやノートを解読し(マルクスは悪筆だったのでなかな大変)、年代や背景等を整理していく作業で、世界中の研究者が作業に当たっている。日本からも多くが携わっており、斎藤氏もそうした研究者の一人である。

マルクスは『資本論』第1部を刊行(1867年)し、さらに第2部、第3部につながる研究を進めたものの、ついにそれを完成させることなく膨大な草稿やノートを残したまま生涯を閉じてしまった。その晩年にいたる研究過程では農業、化学等々の当時の最新の到達点を貪欲に吸収し、『資本論』へ反映させるべく飽くなき研究が行われた。マルクスは早くから、人間の生産や暮らし、労働のあり方を「人間と自然の物質代謝」という概念で捉えていた。資本主義ではそれが撹乱され、人間自身の破壊と自然環境の破壊などとして現れることを指摘している。その根本原因が、土地や資源などの生産手段を集団から奪い、それを私有した資本が利潤追求を唯一最大の目的とした運動を始め、止まることのない生産拡大を基本とする社会(経済成長必須社会)となったところに見出す。
マルクスは初期には生産至上主義的な見方を持っており、ヨーロッパ先進国こそが資本主義を乗り越え社会主義に進むのが基本であるとみていたが、その後研究によってそれを克服。その成果は『資本論』の続編に反映されることなく遺稿として残された。刊行を引き継いだエンゲルスが編んだ『資本論』第2部、第3部は、マルクスが到達した新しい認識を反映させられずに発刊されることになった。

その後、世界で初めて「社会主義革命」を指導し成し遂げたレーニンが、マルクスの『ゴータ綱領批判』を読み間違えたことから、資本主義を乗り越えた社会について、第一段階を「社会主義」、第二段階を「共産主義」とわけ、その違いを生産力の大きさと分配方法よるものとした。まず社会主義では、「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」 →  共産主義では、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取れるようになる」と定式化される。レーニン死後、実権を握ったスターリンとその後継者に歪められたソ連流の社会主義・共産主義論が、世界共産主義運動に大きな影響を及ぼし、次のような理解を広げることになる。
共産主義社会とは、資本の論理から解き放たれ、合理的な生産といっそう高い生産力を獲得し、市場の不確実性からくる恐慌による破局も克服する。そして、有り余るほどの富は適切に配分され人々を充分に豊かにすることができる(資本主義を凌駕し、打ち負かす社会になる。資本主義は共産主義に打倒される!)のだという理解として定着することになる。
世界でも日本でも共産主義運動は長くこの定式に囚われてしまって、そこに手足を縛られてきたことは否定しようがない。何せレーニンが言ったことであるし、現に資本主義ではない「社会主義」という国家=ソ連が生まれ、その本家ソ連から届く共産主義の教科書には、そう書いてあったのだから。

しかしマルクスの本当の共産主義理解は、先に指摘した通り、そのようなものではなかった。そもそも、利潤追求による「生産のため生産」こそ人間と自然の物質代謝を撹乱し、社会の存立条件そのものを無にしてしまうのだから、「生産力競争で共産主義は資本主義に打ち勝つのだ」という従来の定説は、理論的には完全に矛盾してしまう。

『資本論』第一部刊行後の研究で、生産力至上主義およびヨーロッパ中心主義と決別したマルクスは、共産主義社会のモデルをどこに見出したか、斉藤氏は次のように指摘する。
マルクスは、ロシアの農耕共同社会やアジアの共同社会に注目し、その中では資源を共同所有し、必要とされるだけの生産を行なっていた。なぜそうしたかといえば、限られた共有地の資源を乱獲したり枯渇させたり地力を低下させたりすれば(自然の掠奪)、たちまちその社会が持続不可能に陥るので、自然の再生産可能範囲に生産をコントロールしていた農耕社会に注目したのである。経済成長し続けなければならないという資本主義的くびから解放された社会=脱成長の社会を、コモン、共同所有の社会から導き出そうとしていたというわけである。未来の共産主義は、成員の民主主義的参画によって社会の共通資本を維持管理するというイメージである。

斉藤氏は、生産力が高まり、有り余るほどの富(商品)に囲まれることが潤沢と言えるのか?という問題提起をする。確かに現在の資本主義は、溢れるほどのモノに囲まれた社会だが、現実には人々はそれを買うだけの所得がなく、労働者はそれらを得るために一層の労働に駆り立てられるのが現実で、こんな社会が潤沢な社会とは言えないし、人間的社会ではないのだと強調する。
マルクスが晩年につかんだ未来社会・共産主義社会論を生かすならば、そうしたニセの潤沢さから決別するために今日的な形で生産手段の共有化を行い、脱成長社会に転換すること、必要とされる物だけを作り無駄な生産をやめ、しかも自然環境の回復力(循環)の範囲に生産を制限するという方向へ舵をきるということである。余計な生産が縮減され、ケア労働など必要とされる分野に多くの人的資源を振り向けることができる。労働時間が短縮され、家事労働や家族、地域社会との交流の時間を大幅に増やし、スピードを求める社会のありかたを根本から覆し、本当の人間らしい社会となるだろう。たとえば家庭菜園などをする余裕ができ有機野菜を摂取する機会が増え、車に乗る回数を減らし温暖化ガス排出を減らすことにもつながるだろう。これこそが「ラディカルな潤沢さ」なのだと強調する。発想を大転換すべきだし、それはやろうと思えばできることだと。

こうした理論的な解明とともに、現在この瞬間に加速していく気候変動、格差の貧困の問題を解決するための具体的な方策という点でも、世界で生まれている新しい運動や若者たちの運動、諸都市で行われている実践も紹介されており、生産手段の共有という概念を今日的にどう理解し、実践に生かすべきかを提示している。

若い研究者であり、従来の左派の運動の弱点や気づかなかった視点で素直にものをいうことができていると感じる。政治主義を戒め市民の運動が社会を動かすという指摘も、大事な視点である。まだ若い研究者だからこそ逆に、戦前・戦後日本の社会運動が様々な紆余曲折と犠牲を払いながら今日の運動を継承してきているという重い事実があり、労働者保護、社会保障の拡充、平和と民主主義の豊かな実践の積み重ねが、今日の日本社会を形作っている点についてもよく目を向けていただきたいと願う。
日本共産党でいえばソ連流共産主義の理論や実践と対峙し、党の存立を揺るがすような内通と干渉がソ連共産党や中国共産党からも行われてきたが、その時々に、マルクス・エンゲルスの原点に立ち返って彼らの誤りを批判し、その過程で理論が鍛えられ発展させられてきたという歴史も、共産主義運動の重要な一構成部分として誇れるものだと改めて感じた次第。

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