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『分解の哲学』ー自然循環に果たす分解の役割と資本主義

『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考― 』(藤原辰史著、青土社、2019年)

「分解の哲学」という書名に、どういうことだろうと興味をそそられました。

私たちは、欲望(必要)を満たすために食料や製品を作ります。それらを消費しその役立ち(使用価値)が失われれば後には残骸や排泄物が残ります。それらは分解過程に入り、分解者(微生物や菌、フンコロガシやハイエナ、堆肥をつくる農民や修理屋)によって再び他の生物の栄養源や何らかの原材料になったりして新たな役割を持たされるのです。ここに、終わりは同時に始まりになるという連続的過程を見ることができます。その間を取り持つのが「分解」というわけです。

地球や自然のあり方あるいは農村を想像すれば、その摂理は当然のものです。私が幼少の頃、祖父母の家では汲み取り式便所の人糞を畑などに利用していましたし、臭いを漂わせながらそれを運ぶ人の姿をあちこちで見ました。かつては排泄物は食糧生産には絶対に欠かせない要素の一つでした。生産も、消費も、廃棄も、再利用も、それぞれに優劣や主従をつけるような一方向的な関係ではなく、相互に関連・浸透しているのです。

しかし今日の「廃棄物」という言葉には、以上のような循環過程から完全に排除された、「役目を終えた」「役に立たない」ものという強固なイメージがあります。プラスチック製品や家電製品などが最終処分場へダンプで運ばれ、その山をブルドーザーがならし、周りを鳥たちが飛び回るような映像が目に浮かびます。最後はそこに土が盛られさらに雑木林となって、大量のゴミなど何も無かったかのように「豊かな自然」が誕生します。
現代のトイレでは、消臭スプレーで匂いが消され、換気扇で空気が吸い出され、汚れ防止剤が混ざった水が流れ、「音姫」が排泄音を消し、便器は白くピカピカに磨かれ、芳香剤で森の香りに包まれるのです。そこで排泄されていたことなど、まるで想像できません。

なぜ廃棄物や排泄物は不要なもの、忌み嫌われるものという考えを生むのかを、資本主義の仕組みから考えてみます。

資本主義は、利潤の最大化のために生産効率をより高め、商品の性能をより高めるエンドレスの開発競争、生産力拡大競争に駆り立てます。これは資本主義以前の社会にはなかった特徴で、資本は果てしない経済成長を強制されるのです。たしかにそれによって科学技術が発達し、私たちに豊かな富をもたらしたことも間違いありません。一方で、あり余るほどの商品、意味のない不必要な商品、巨大な先行投資、枯渇が明白なのに止められない資源の採掘、そして大量廃棄などの悩ましい結果をもたらします。

資本が利益を実現するには、商品が予定通り売れ、さらに売れ続けることが必要です。そのためには消費欲・購買意欲が増大しつづけることがカギです。つまり市場が必要ということです。しかし、消費者=労働者群が、資本主義的生産のもとで賃金の低下や長時間労働を強いられ、購買力そのものが伸び悩み=市場規模が縮小していくという避けられない問題に必ず直面するのです。

そこで資本は、長持ちしない商品を作り、さらに「部品の在庫年数は7年」などとして修理をできなくします。買い換えるしか製品を継続して使えないのです。「修理するより買った方が安い」「修理なんてバカバカしい」という会話は今ではどこにでも転がっている話です。また、使える余地があっても計画的に陳腐化させて製品を古臭くさせ、新しいものの購入意欲を煽るのです。1年に1回、かならずiPhoneがモデルチェンジするように、頻繁なモデルチェンジこそが標準なのです。100円ショップは大半が「使いすて」商品です。衣料品も半分が売れ残り廃棄されます。百円ライターはそうした製品の走りだったと思いますが、私の実感としては1990年前後くらいからそのような「使い捨て」が社会の標準になっていったように思います。
捨てることに躊躇しないように、できる限り早く私たちの目の前から消え、新しいものに置き換わる必要があります。使い終わったものは、存在してはならないのです。

これが私たちの生きている社会です。「新品は良い」、「古臭いものはカッコ悪い」「人の使ったものは汚い」という価値観は、社会に徹底的に浸透させられてきました。ゴミ屋敷をみた私たちは顔をしかめながら「なぜ捨てられないのか!」と非難するのですが、ここに象徴的に現れていると思います。

問題は捨てられても分解されることなく自然に還らない化学肥料や薬品(もっとも悪質なのは放射性物質)を作ること、化石燃料を燃やしつづけること、自然の分解スピードをはるかに超える生産・廃棄を行うこと、にあります。自然に還らず、垂れ流されるだけ、埋め立てられるだけです。ここに、巨大な生産力を社会に生かせない資本主義の本質が現れています。

『分解の哲学』では、文学作品や諸文献の中から地球や自然、本来の人間社会の循環システムの中にある「分解」過程の意義を捉えようとしています。
幼児が積み木を積み上げ作品を完成させ、それが崩れおちてバラバラになり、再びそれを積み上げる過程をとらえ、“崩れることを前提にした積み木”のあり方から、「分解」の意味を哲学的に語ります。
作家チャペックの作品を紹介し、人々が不老不死の命を得られる薬が開発されたがそれをどう扱うかの論争があり、人間が作ったロボット(といっても血の通う生身の体であり、土に還る)が人間を滅ぼして人間に近づいていくという物語が取り上げられています。死や腐敗というものを恐れそこから逃れた先に希望があるのではなく、むしろ自然の摂理にそって死を素直に受け入れる中にこそ、本来の人間の姿があるということを述べています。

江戸や東京という大都市では、廃棄され屑と呼ばれるような様々な生活物資(ハギレや食品廃棄物)を回収し、再資源化したり、ふたたび使えるように補修・修繕したりする庶民の生業や営みが都市機能としての重要な役割を果たしていたことをさまざまな文献から紹介しています。“バタヤ(屑拾い)は、生産に従事しないが「分解」活動を営んでいる。拾うという働きは人類の根源的な働きというべき”としています。新品には絶対にない、補修されたもの美しさと愛着。古来から人はものを大切に扱い、役割を存分に果たせるように工夫を施してきました。「金継ぎ(きんつぎ)」技術によって再生された茶碗には、新たな生命が宿り、独特の良さや文化を作っているとしています。

人間の労働とは、自然に働きかけ、自然を加工し、そこから人間の役に立つもの(使用価値)を作り上げる営みです。その有用物は消費され(売れ残りなど消費されない場合もありますが)、必ず廃棄されます。マルクスはこの過程を「人間と自然の物質代謝」と言っていますが、その射程は、廃棄物がやがて様々な形で分解されて自然に還元されていく、そこまで含めた捉え方です。その過程を破壊する資本主義的生産を批判し克服する必要があるとしているのです。
私たち人間(社会)は自然の一部であり、この自然の循環を乱しては絶対に成り立たないはずものです。その環である「分解」(や腐敗や発酵)の過程を無いものとしながら、生産のための生産(利潤拡大を追い求める)を旨とする資本主義が成り立つのは、「買わずにはいられない」「新しくするために捨てる」という観念に囚われている消費者が多数いるからに他なりません。

『分解の哲学』は、人間社会での分解、発酵、腐敗、補修という側面に光をあててその意義を言葉にしていますが、その上で警告的に強調しているのは、分解能力以上に生産と消費が行われれば、自然とは相入れないものになるのは明らかだという点です。
もう一回読んでみたくなる、非常に奥深い内容の本でした。

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