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『資本論』第1巻第8章 人格化された資本と、人格化された労働時間

『資本論』を第8章から読み始めました。かつて関西勤労協の吉井清文さんの講座を受ける機会があって、『資本論』は8章からやるとわかりいいとすすめられたことがあります。資本と労働者の標準的な労働時間確立をめぐるたたかいを生き生きと記述しており、実に面白い章です。
資本家は「人格化された資本に過ぎない」というあの味わい深い言葉をいろんなところで引用していたのですが、読み進めて行って2節の最後の方に、労働者は「人格化された労働時間以上のなにものでもない」という、これまた含蓄ある記述があったことに気づきました。
それはつまり、資本の利潤(剰余価値)追求が、労働者の際限ない労働時間延長を強いること、資本にとって労働者の労働時間をいかに伸ばすかが利潤最大化にとって最も重要な要素なのだということの、本質的表現なのですね。
個人の人格(「〇〇さん」)ではなく、「そこのパートさん」「おい、バイト君」という表現として現象するわけです。
そこに気づけば、今度は「俺は時間なんかじゃない。俺は俺だ!」と、「人間」の本質を自覚して、それを取り戻す反撃の力を得ることができます。『資本論』は、そういう力を持っていると思います。

なかなか難しいマルクスですが、不破哲三さんの解説書を並行して読み進めると、電動アシスト自転車のようにスイスイとわかっていきます。(わかったような気がするだけかもしれないけど、それでもいいと思います)

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